愚老庵愚老庵

We recommend the following browsers to translate and display in your native language.

Recommended browser

  • ・Google Chrome
  • ・Microsoft Edge

*Select your country's language from "Show translation options"

×

  • 縁友往来
  • 意識の科学・真理を求めて━自閉症からの旅立ち

意識の科学・真理を求めて━自閉症からの旅立ち

Akira Ishibe

×

石部 顯 1955年、岡山県津山市生まれ。 子供の頃、自閉症で苦労するが、高松稲荷で祈ったところ、特別支援学級の知的レベルから、10年後に東大に入り心理学を研究することへ導かれた。1980年卒業。 人間の意識が秘める力、自分を超えた大きな力が存在すること、その二つが共鳴することで開かれる、皆が幸せになる道を探究し伝えている。 最新科学と古代の叡智、東洋と西洋の文化を統合し、日本の自然・文化・こころの真価を日本の若い人たち、アメリカ人に伝えてゆきたいと願っている。 その一環として著書『真理大全 真理篇 科学篇 思想篇』を、今秋に刊行予定。
意識の科学・真理を求めて━自閉症からの旅立ち

「意識とは何か」を、本覚的に探究し始めて、50年が過ぎた。神話学者キャンベルによれば、私たちの一生の旅は、旅立ち(願い)・探究(求道)・苦難(試練)・覚醒(発見)・帰還(智慧の共有)であり、誰もがその道程を歩んでいるという。世界中の神話や伝説の英雄物語も、同様な筋書き(プロット)で、普遍的な象徴(パターン)であるそうだ。内宇宙の旅を通して成長してゆく物語は、まさに私たち一人ひとりが歩んでいる人生の道程にほかならない。

 

 意識とは何か、どうすれば心の病が癒され、可能性が開花し、皆が幸せになるのか━。その真実を求め旅した記録を通して、最新の脳科学・心理学と、古代からの叡智が一つに出会った、内宇宙の実体について、これからご紹介してゆきたいと思う。まず、自分の心を手がかりとして気づいたことから始め、最新の脳科学・心理学の成果と古代の叡智がクロスする真理について分かち合いたい。

 少しでも、皆さまの幸せに役立つことができれば、望外の喜びです。

 

■省察1━自閉症の心から見える世界、願う・イメージ(想像)する・集中する意識の力と可能性について

 

 まず、意識とは何か、を探究するきっかけとなった三つの体験について触れたい。                  

 一つは、自閉症と言われる意識状態を、実際に体験したことである。私は、小学1年(1962年)のとき、自閉症を理由に、教師から特別支援学級へ行くように言われた(しかし、親はそれを拒否する)。自閉性障害(Autistic Disorder)が、レオ・カナーによって発見されたのが1940年代、自閉症という言葉は、日本ではまだそれほど一般的には知られていない時期である。自閉症は、社会性の障害や他者とのコミュニケーション能力に障害・困難が生じ、こだわりが強いといった特徴を持ち、多くが精神遅滞を伴うとされる。症状は千差万別で、一概に言えない。私の場合は、次のような状態であった。

 

 決まっていたことが急に変更になったり、まったく初めての状況を体験したりするとき、強い不安や恐怖に襲われる。普段から、不安を和らげるため、体の一部を連続して叩いたり、同じ動作を繰り返したりする。外界から自分を傷つけるような刺激が侵入しないように防衛するため、意識を固く内側から閉ざす。しかし、人とのコミュニケーションは難しくても、自然の植物や動物には、そうでもない。例えば、紅葉した木の葉の美しさに心が吸い込まれるほど感動したり、湖水に風が吹き渡り太陽の光を受け千変万化する漣の煌めきに見とれたりして、時間が経つのを忘れてしまう。また、犬とは、コミュニケーションができた(自閉症の人によっては、それが石ころだったり、虫だったり、様々である)。

 

 そして、こだわりが強い。一つのことやパターンに固執する(相手が、心の安定につながる)。神経、感覚・知覚が過敏で、鋭く感じやすく、音や匂いに敏感で、ときに過剰に反応する(知覚過敏)。パニックを起こすこともある。例えば、10メートル先の床に落ちたピンの音でも聞えるような感覚がある。時計の小さな音でも、耳について寝られなくなる。大きな声や音、怒鳴り声、攻撃的な音、荒々しい声に対しては、耐えがたい苦痛・ストレス・恐怖・怒りを感じる。ただ、こうしたこだわりや過敏さは、可能性でもあり、徐々にコントロールすることを覚え、良い方に向けて生かせるようになれば、想像力、創造力にもつながり得る。

 

 その後、有り難くも、素晴らしい二人の教育者に出会い、人生の方向が変わることになる。竹内(たけうち)恒彦(つねひこ)先生は、自分の思いや考えを表現する喜びと意味を、池田(いけだ)秋夫(あきお)先生は、感じた疑問を徹底して追究する喜びを教えてくださった。竹内先生の授業は、イメージを生かし、「自分で考え、工夫する力(努力)」を育てる教え方で、発達心理学から見て、特別支援学級の子供たちにも有効な、極めて優れた教授法であったと思う。池田先生は、市販のテストを一切使わず、生徒のどのような疑問にも真正面から向き合い、誤魔化さず、それが解けるまで見守り、同伴して下さった。子供たちは自発的に大人用の百科事典や専門書まで調べ、純粋な興味の発露が促されて、疑問を探究するわくわくするような喜びを味わった。池田先生が微笑みながら、ふと、「科学は、真理を探究すればするほど、分からないことが増えるんだよね」と言われた言葉が、今も忘れられない。

 

 二つ目は、不思議な現象に、遭遇した出来事である。1963年(8歳)のある夜のこと、寝ようとして、暗闇で布団の中に横たわっていたとき、何かある情動が、胸に自然に込みあげてきて、「皆が、幸せになりますように」と願い、祈ったことがある(人の諍いが多い環境で育ったからと思われる)。そのとき、目を瞑っていたにもかかわらず、周囲が明るく感じられ、光が全身を包み、体の中まで満たしてゆく感じがした。その温かく優しい光は、目を閉じていても明るく感じられるほどで、心身が非常に安らいだ。今思うと、それは自在に形を変えて流れる光のエネルギーの風か、光の球体(オーブ・orb)のようであり、意識をもち、慈愛に溢れるもののように感じられた。

 

 三つめは、「強く願ったこと」が実現する、想念の力に驚いた出来事である。小学校三年で、学力は特別支援学級レベルのため、文字がまともに読めない。しかたなく、教科書にある絵を、ノートに書き写していた時期があった(言葉で表された内容を、絵<ビジュアル、イメージ>にすることは、学習の発達や目的実現のために、心理学的にも非常に有効で重要な意味があることが後に分かった)。

 

 そうした年のある正月、岡山にある最上稲荷(高松稲荷)に、親に連れてゆかれたことがある。山の上には「奥の院」があり、麓の本殿から山上まで、道の両脇に沿って神仏・菩薩を祀った祠が幾つも並んでいた。そのとき、願うことと言えば、「皆が幸せになりますように」と「勉強ができるようになりますように」しかなかったので、下の本殿から奥の院まで、一つひとつの祠の前に立ち止まり、祀られた神仏・菩薩に合掌し、祈り願った。勉強ができない、周りについてゆけないだけで、馬鹿、白痴、低能などと罵られ、差別され、いじめられたこともあったので、切実に勉強ができるようになりたかったのだと思う。

 

 そして、そのように願ったことなど、ほとんど忘れてしまうのだが、その後、よい先生のご指導もあり、成績が徐々に伸び始めたのだ。小学1年のときは、5段階評価でオール1の成績だったのが、高松稲荷で祈ってから、5年後の中学2年生でオール5に、試験でも学年で1番になった。そして10年後、東大に入り、真理探究への道が開かれたのだ。これは、決して偶然の一致などと言って済まされるものではないと思った。正直な気持ち、道が開かれたのは自分の力などではなく、何か、未来からクレーンのようなもので引っ張り上げられたようにしか感じられなかった。自分の力を遥に超えた力が働いて、予想もしなかった道が、開かれてしまった感覚である。

 

 その当時には、まったく自覚していなかったが、今から振り返って思うのは、願う力の可能性━意識の世界では、何かを切実に強く祈り願えば、それに応えてくれる大きな力が自然界にはあり、その力の助力を得て、願いが成就する仕組みがあることを体験させていただいたように思われる。「人事を尽くして天命を待つ」と言われるが、何事も、最後に実現するかどうかは、天の意志にかかっている。明治時代、日本海海戦を勝利に導いた参謀・秋山真之の言葉に、「之を謀るは人にあり、之を成すは天にあり(何かを企てるのは人間がやることだが、それを最終的に成し遂げるのは天の領域である」がある。自分を超えた大きな力が確かにある感触を頂いたことは、意識の可能性を探究する上で貴重な指針(ししん)となった。

 

 まず、強く願うこと。次に、願ったことをイメージやビジュアル(絵)に生き生きと描くこと。そして、願いと絵に、意識を集中して持続すること━。これが、意識の中にあるものを外に現して形にする、重要な鍵ではないかと考えるようになった。心が救われることと、心の可能性が開かれてゆくこと、これら二つのテーマをより明確にし、さらに求めるべき方向を示してくれたのが、科学の智慧(岡潔『春宵十話』)と慈悲(鈴木大拙『禅と日本文化』)と愛(トルストイ『人生論』)に関する3冊の本との出会いであった。

 

 

2024/7/2

Tags:内宇宙の旅

Comment

  • So Ishikawa:
    2024年7月2日

    石部顕さんは、私にとって「この世」の話だけではなく「魂の世界」の話も平気でできる希少な Soulmateで、私は彼のことをアッくんと呼んでいます。

    アッくんの知識量は半端ではなく、哲学、宗教、心理学、超心理学は言うに及ばず、歴史や比較文化にまで及ぶ博識ぶりには、ただ脱帽するしかありません。

    「愚老庵」に知性溢れるメッセージやコメントを寄稿しているアッくんが、実は小学生時代をずっと特殊学級で過ごしていた。この事実を知って、衝撃を受ける方も多いと思います。

    アッくんは何故この「意識の科学・叡智を求めて」で、自分が「自閉症」だったことをカミングアウトしたのでしょう。それは、自分と同じ痛みを抱える人たちに、「どうすれば心の病が癒やされ、救われるのか」伝えたかったからだと思います。私はそこに、あっくんの熱い「魂の願い」を感じます。

    自分の人生は、生まれてくる時に自ら選び取ったものであり、その人にしか出会えない体験を通して私たちは「魂の願い」に導かれてゆく。アッくんの歩んできた道は、私たちにそのことを教えてくれているのではないでしょうか。

    アッくんが、自らの心を開示し、知識だけでは伝わらないものを伝えようとしてくれたこと、Soulmateとしては、何よりもそれが嬉しいです。

  • Akira Ishibe:
    2024年7月2日

    書き手の思いを理解していただき、また的確なコメントを
    いただき、本当に励まされます。有り難うございます。

    知識、博識については、そう言われても、本人は、
    まったくそう思ったこともなく、ピンとこないのです笑。

    知識自体に、あまり価値を置いてなく、それより、実際に
    経験し、体で悟る、体認体解(たいにんたいげ)しなければ、
    知識だけでは意味がない、本物でないと思っているからでしょうか。

    Ishikawaさんは、そのことも、よく分かってくださっていて、
    言葉や知識では言えないこと、表現しきれない、できないものを
    伝えるために、限界を知ってなお、それらを使っているだけで、
    本当は、その向こうにある大切な何かを、感じていただきたい、
    お伝えしたい、思い出していただきたい一心で、不器用ながら、
    挑戦を続けている感じでしょうか笑。

    言葉には、言霊があるように、文字には、文字霊(もじだま)が
    あるそうです(般若心経など、美しいですよね)。文字のリズム、
    波動、姿形を通して、たとえ、0.000……1%でも、言葉以前の
    ものを受け取っていただければ、それでもう幸せという感じです笑。

    Ishikawaさんもまた、同じことを、映像と音響と言葉を通して、
    なされているのだと思います。根本の願いは同じ、表現はそれぞれの
    個性において様々、多様であるから素晴らしい。愛は、多様を喜ぶ、
    という言葉が好きなのですが、この「縁友往来」も、個性に溢れた、
    ご縁のある皆さまと、楽しく交流できることを嬉しく思っています。

    Ishikawaさん、ありがとうございます。たまたま昨日観た、陶芸家・
    河井寛次郎の紹介映像からの言葉を、感謝を込めてお贈りします。

    「美の正体 ありとあらゆる物と事の中から 見つけだした喜び」
    「すきなものの中には、必ず、わたしはいる」━自らを解放した創作
    は、かつてないほど自由(そして作品に、自分の名を入れなくなった)。

コメント投稿には会員登録が必要です。