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ブッダの心を尋ねて━「この世は美しい」「皆が仏性を抱く」

Akira Ishibe

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石部 顯 1955年、岡山県津山市生まれ。 子供の頃、自閉症で苦労するが、高松稲荷で祈ったところ、特別支援学級の知的レベルから、10年後に東大に入り心理学を研究することへ導かれた。1980年卒業。 人間の意識が秘める力、自分を超えた大きな力が存在すること、その二つが共鳴することで開かれる、皆が幸せになる道を探究し伝えている。 最新科学と古代の叡智、東洋と西洋の文化を統合し、日本の自然・文化・こころの真価を日本の若い人たち、アメリカ人に伝えてゆきたいと願っている。 その一環として著書『真理大全 真理篇 科学篇 思想篇』を、今秋に刊行予定。
ブッダの心を尋ねて━「この世は美しい」「皆が仏性を抱く」

今からおよそ2500年前、ブッダが悟りを開いたとき、最初に言ったとされる言葉がある。━不思議だ、不思議だ、一切の生きとし生けるものは、本来、仏そのものなのに、煩悩でおおわれているがゆえに、その真実に気づいてないだけなのだ(『涅槃経』)。

日本文化のルーツを遡る時、ブッダの悟りから受けた恩恵には計り知れないものがあることが感じられる。日本文化と日本人の無意識に深く浸透し、成長・開花するための揺籃ともなったブッダの教えとは何か━。今回は、その核心に迫ってみたい。

 

■ブッダが悟った慈悲と智慧・「三法印(さんぽういん)」の法則━「この世は、苦である」と「この世は、美しい。人生は、甘美である」をつなぐ真理

仏教の教えの特徴とされる三法印は、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)である。諸行無常は、すべては移り変わり、一瞬一瞬、同じものはなく、常に変化している真理。諸法無我は、すべてあるものは、独立した「我(自分)」としてはなく、相互に関わり合い依存し合っている真理。涅槃寂静とは、一切の迷いや束縛から自由な、安らぎの世界の真理とされる。

「諸行無常」と言えば、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と、『平家物語』の言葉が思い浮かぶが、どこか人生の虚しさ、儚さ、悲しさなど、どちらかと言えば消極的で否定的な印象を受けてしまいがちである。人の力ではどうすることもできない圧倒的な運命・宿命の力を前に、己の無力さ、人生への虚無感を抱く人は多い。ブッダは、「この世は、苦である」━この世は、耐え忍ばざるをえない忍土(にんど)であると言った。しかし、そのブッダが、最晩年、死期を悟って語った言葉が、「この世は美しい。人生は、甘美である」であった。苦悩から甘美へ━三法印とは、実は、私たちを救いに導いている力であり法則なのである。

三法印の肯定的な可能性の側面を見てみよう。諸行無常とは、この世の一切のものは、刻刻と変化し、関わり合いながら、最終的に、今までにない新たな調和へと向かっているという真理である。すべては、変化し続けている。今、悪くても、後退しても、必ず、好転するときがくる。最悪の状況も、暗転の現実も、失敗や挫折も、すべて成長に向かう一里塚であり、成長のために必要な出来事、体験なのだ。そのように、一見、悪く見える時でさえ、常に進化していることを、諸行無常の真理は教えている。

諸法無我とは、この世界に存在するもので互いに無関係なものはなく、すべてがつながっているという真理である。20世紀、極微の世界を探究する量子力学で、すべてがつながっている宇宙の実体が証明された。それは意識の世界でも言える真理で、私たちの一人が、愛と慈悲で心を満たせば、言葉や行為を介さなくても、傍らにいる人に伝わることが心理学で解明された。一人が変わること、一人の善い想いと行いが、周りの人たちや社会に影響を与えてゆくことを諸法無我の真理は教えている。

涅槃寂静とは、宇宙・人間の一切を生み出し、支え、導き、一切そのものである慈悲と智慧のエネルギーによって世界は成り立ち、動かされているという真理である。だから、たとえ一時、諸行無常・諸法無我で、事態が暗転し、破滅の危機に陥ろうとも、必ず再生・新生・復活する、涅槃寂静の力と法則が、常に世界の根底で働いているのである。私たちの人生もまた、その力に抱かれ、支えられ、導かれていることを涅槃寂静の真理は教えている。涅槃寂静の真理を自覚することが、究極の悟りであり、まことの安らぎとなる理由である。

否定的側面だけを見れば、一切が滅びに向かって突き進んでゆくことから逃れられない「諸行無常」、人が無数の関わりの中で思いもよらない困難に巻き込まれる、思うにままならない「諸法無我」━。この世界を貫いて流れる法則に、私たち人間は翻弄され、古来より、この法則と闘い、絶望を乗り越える道を求めてきた。しかし、ブッダが悟った諸行無常は、変わるから進化がもたらされる、諸法無我は、関わりつながるから一人が可能性を開けば全体に波及する、人と世界の未来に、不滅の希望を与えるものであった。

目の前で、いかに崩壊・破壊・絶望的な状況が展開し、闇が世界を席巻しようとも、一切の根底を支え統括する自然・宇宙が、涅槃寂静━慈悲と智慧の力によって動かされている以上、時間はかかっても最終的に事態は好転し、進化するように導かれ運ばれてゆく定めにある。それが涅槃寂静の真理だとブッダは言う。涅槃寂静の法則は、諸行無常、諸法無我の法則を包含して究極の調和へと、今も常も、私たちを、世界、自然、一切を運んでいるのである。

ブッダは、初め、「こは苦なり」(この世は苦しみである)と説き、最期、「この世は美しい。人生は甘美である」と語った━。不自由で捉われた私たちの自我は、諸行無常、諸法無我ゆえに四苦八苦し、この世は苦である、と嘆く。しかし、その二つの法則と力が、本来、何のためにあり、どこに向かっているのか、涅槃寂静の光に出会って初めて会得することができる。「こは苦なり」と思っていた世界と人生そのものが、実は、初めから、いかに慈悲と智慧の光に満ち溢れ愛されていたのか、━ただその事実に気づくだけ。そのとき、「この世は美しい。人生は甘美である」と言ったブッダの微笑が、胸深く沁みて心安らぎ、ブッダに微笑み返すことができるのだろう。圧倒的な光に包まれ愛されている涅槃寂静の「今ここ」にある真実、まことの安らぎに目覚め、人にも自覚していただけるように尽くす道こそが仏道である。

 

■すべては「空(くう)」、慈悲と智慧のエネルギーである━ 一切の母胎、今ここ、還る故郷

「空」は、大乗仏教の思想の核心である。すべての真理の究極の真理とされる。宮本武蔵は、「万理一空(ばんりいっくう)」━すべての真理は、一つの空から生まれていると言った。

空は、一切の母胎である。空は、空(から)っぽ(emptiness)でもなければ、何もない無(nothingness)でもない。「空」について、核心を表現しているのが、次の中村元氏の言葉である。

「空」は一切の事物を包括(抱擁)する。対立するものがないから、排除したり反対したりするものはない。「空」の真の特質は、存在の充実である。あらゆる現象を成立せしめる基底である。それは生きている「空」である。あらゆる形がその中から出てくる。空を体得する人は、生命と力にみたされ、一切の生きとし生けるものに対する菩薩の慈悲で満たされる。慈悲とは、「空」──あらゆるものを抱擁すること──の、実践面における同義語である。大乗仏教によると、あらゆるものが成立する根本的な基礎は「空」である。だから、「空を知る」ということは、「一切智」(全智)とよばれる。

われわれが空を体得すると、善き行いがおのずから現れてくる。空の実践は、闊達な境地に立って行われる。こだわるところがない。この点で、鳥が虚空を自由に飛翔するという譬喩がしばしば用いられる。菩薩は、無量無数無辺の衆生を済度するが、しかし自分が衆生を済度するのだ、と思ったならば、それは真の菩薩ではない。かれにとっては、救う者も空であり、救われる衆生も空であり、救われて到達する境地も空である。

 空は、有と無、二つの極端をはなれている中道(ちゅうどう)である。

        ──『日本思想史』『龍樹』中村元著

 

■意識を9層で見る仏教━心の根源は仏性(ぶっしょう)、煩悩・業は4種の智慧に変わる

心とは、何か━。仏教の心理学・唯識(ゆいしき)が専門の竹村牧男氏の研究をもとに考察したい。

仏教では、心を9つの層に分けて説明する。自分で意識できる感覚・知覚、眼耳鼻舌身の五感である前五識、分別判断する思いを第六識と言う。これらは心理学でいう自我にあたる。さらに深く、第七識の末那識(まなしき)は、煩悩の蓄積場で、絶えず自我を愛し自我に執着している心の領域である。心理学では、無意識にあたる。そして第八識の阿頼耶識(あらやしき)は、無意識よりさらに深くにある潜在意識で、過去一切の経験の情報、見たり聞いたりしたことすべてが貯蔵されている。

過去一切とは、仏教は生死輪廻(しょうじりんね)を説くので、無始以来、輪廻転生(りんねてんしょう)してきた間に経験したことのすべての経験と智慧を含んでいる。これは、心理学者ユングの説く集合的無意識にあたる。宇宙、自然、人類、民族、地域等に共通の意識が、共通の一切の体験を貯蔵している阿頼耶識から生まれてくると言える。さらに第九識、阿摩羅識(あまらしき)として「如来蔵(にょらいぞう)」「仏性(ぶっしょう)」が説かれる(「如来蔵思想」による)。仏性とは、良心、真心、真情、赤心、明(あか)き心、神性とも呼ばれる「仏そのものの本性、慈悲と智慧のエネルギー」である。

この世で一瞬一瞬、生きて経験したことが、阿頼耶識に貯蔵され、その光・闇すべてが、この世の人生に影響を与え、さらに死後、あの世の光・闇のどの世界に生まれるかを決めてゆく。つまり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道輪廻を駆動し、声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩(ぼさつ)・仏(ほとけ)に向かう力となる。したがって、阿頼耶識に貯蔵された闇の堆積を光に転化することが、仏道の成就につながる。それを可能にするのが、第六識の心のはたらきである。

私たちが、普段、心と思っている、自分で自覚できる意識、心が、自然の真理・法則に適った思い方を選ぶこと━。その「自覚的な選択」が、無意識(末那識)にある自然の理に反した想念エネルギーを転化・変容させてゆくことになる。つまり、心が、自然の真理に逆らうことを止め、真理に適った思い方を選ぶようになるにつれ、法則に外れた思いと行いの習慣力は次第に弱まり、自然の真理に適った想念行為のエネルギーが強化されてゆくことになる。それがやがて、阿頼耶識の領域にある、煩悩の根源である業(カルマ)の闇をも転化し、本来の光へと変容させ、仏性の光を増幅して引き出すことにつながるのである。

つまり、心の持ち方と行いが自然の法則に適うようになり、末那識と阿頼耶識にある闇のエネルギーが光に転化され尽くして、4つの「智慧」に変えてゆくことができるという。阿頼耶識は、大円鏡智(だいえんきょうち)━鏡のようにすべての真理一切を明らかにする智慧に、末那識は、平等性智(びょうどうしょうち)━自他平等の本性が、空の慈悲と観る智慧に、思考判断する思いは、妙観察智(みょうかんさっち)━対象を正しく観察し、自由自在に働く智慧に、五感は、成所察作智(じょうしょさっち)━人々を救済して、為すべきことを成す智慧に転じる。つまり、あるがままの真実と、すべてが平等である本質、個々の特徴・個性が分かり、可能性を開花するための智慧が目覚めてくる。八識が四智となったのが仏であり、仏は、その四智において、未来永劫はたらくことになる。

空海は、人間が悟り得る究極の意識世界を、「秘密荘厳住心(ひみつしょうごんじゅうしん)」と呼んだ。私たち一人ひとりの心の源底には、胎蔵界(たいぞうかい)・金剛界(こんごうかい)の曼荼羅(まんだら)に描かれた、諸仏・諸菩薩・諸天・諸尊の一切が、今も、常に、働きかけ、支え、導き、守っているという。私たちの心、意識が、どれほどの潜在力を秘めているのか、━想像を絶した可能性の宝庫であることが明かされている。すでに与えられている、その測り知れない慈悲と智慧の光のエネルギーに目覚めることが、ブッダの教えの核心なのである。

2024/7/15

Tags:日本文化のルーツ

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