縁友往来Message from Soulmates
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内宇宙の真理を求めて━科学の女王、ブッダの慈悲、イエスの愛
一冊の本との出会いが、人生を変えることがある。本は、異次元への窓である。本を通して、数千年の時を超えて、私たちは古の賢人たちと親しく交わり対話することができる。始めて『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)を読んだとき、登場人物に自分を見る思いがして驚いた。世の中には、同じことを考え、悩み、苦しんでいる人がいるのだ、と━。
今回は、一体、自分は何のために生きるのかが分からず、苦しんでいた時に出会い、私の潜在意識にあった願い、内宇宙の探究につながる人生の目的を思い出すきっかけを与えてくれた3冊の本についてお話ししたい。
■省察2━探究の手がかり;岡潔『春宵十話』、鈴木大拙『禅と日本文化』、トルストイ『人生論』
高校2年生(17歳)のとき、友人二人の父親が相次いで亡くなり、1ヵ月ほどの間に二つの葬儀に続けて出たことがあった。一人の友は黙って悲しみに耐え、もう一人は号泣していた。二人を見て、「この悲しみは、科学では救えない」と思った。また数学の真理は、完全でも無矛盾でもなく不完全なものであると証明した「不完全性定理」に衝撃を受け、数学者になる夢を失くした時とこれが重なり、これから何のために生きてゆくのか、生きている意味とは何か、将来の進路を含め、悩み苦しむことになった。悩みや疑問を理解し、教えてくれそうな人に尋ねてみるのだが、答えは得られなかった。そして、文学、哲学、社会学、心理学、宗教、様々な本を読みあさった。そのとき、大切な示唆を与えてくれた3冊の本に出会う━。
1冊は、数学の「多変数解析関数論」という分野で、「世界の3大難問」を解いた数学者・岡潔(おかきよし)の『春宵十話(しゅんしょうじゅうわ)』である。彼は、難問に取り組むにあたり、毎朝、念仏を1時間唱えてから思考に入った。それが、数学の難問解決につながった体験から、宗教的修行が、科学の発見にも役立つのではないかと考えた。━「自然の風景に恍惚としたときなどに意識に切れ目ができ、成熟を待っていたものが顔を出すらしい。そのとき見えたものを後になってから書くだけで、描写を重ねていけば自然に論文ができ上がる」「なむあみだぶつをとなえて木魚をたたく生活をしばらく続けた。こうしたある日、おつとめのあとで考えがある方向へ向いて、わかってしまった。……それは宗教によって境地が進んだ結果、物が非常に見やすくなったという感じだった」。
岡潔は、道元(どうげん)の言葉を引いて、念仏だけでなく、禅でも、意識が瞑想の状態に入ることで、智慧(仏智)が目覚め、科学的真理の発見につながるというのだ。実際に体験した者のみがもつ説得力に溢れ、世界的な数学者の発言であり、衝撃的だった。真理の発見には、意識がある状態に整えられる必要がある━。狂犬病のワクチンを発見したパスツールの言葉にも、「幸運は、準備された心にのみ微笑む」とある。そうした意識の可能性を開く、普遍的な心理法則と実践方法を、もっと体験的に知りたいと思った。
岡潔の研究室には、道元の言葉とともに、宮澤賢治の次の言葉が掲げられていたという。━「名を現さず、報いを受けず(自分の名を出さず、報酬を受けず)、貢高(しこう)の心(評価を求める思い)を離れ、筆をとるや、まず道場奉請(どうじょうほうしょう)を行い(神仏に請い願って詔(みことのり)を授かるよう祈り)、所縁仏意(しょえんぶつい)に契(あ)うを(何事も仏の心に適うことを)念じ、然(しか)る後に全力之(これ)に従うべし。断じて教化(きょうげ)の考(こう)たるべからず(絶対に、人を教え諭そうなどと考えてはならない)! ただ純真(じゅんしん)に法楽(ほうらく)すべし(真理を敬愛して自ら楽しむのだ)。たのむところおのれが小才(しょうさい)に非(あら)ざれ(自分の小賢しい才能などに頼ってはならない)。ただ諸仏菩薩の冥助(みょうじょ)(目に見えない神仏の助力)によれ」(原文は漢字と片仮名)。
本来、人間は誰にも平等に、仏の智慧が備わっているとする仏教の人間観では、修行を通して心が磨かれ調和されれば、誰もが仏の智慧にアクセスすることができると説く。その智慧の世界には、科学的真理、創造的アイデア、インスピレーション(霊感)、人と世界を貫く普遍的な真理の力も含まれている。岡潔の実体験を通して、意識の可能性に、眼が開かれ、惹きつけられる思いがした。
2冊目は、世界に禅・仏教思想を広めた鈴木大拙著『禅と日本文化』である。禅によって、空(くう)━宇宙的無意識(大拙の言葉)にある真理、科学を含む一切の真理の智慧を瞥見、体得できると説く。その中に、忘れられないエピソードがあった。少し長くなるが要約したい。
━武士の身分となって、土佐から江戸に出てきたばかりのお茶の師匠が、上野・不忍の辺りで、強請(ゆす)り目的の浪人に決闘を申し込まれるという出来事があった。死を覚悟した師匠は、犬死だけはしたくなかったので、主君に復命して戻ってくるので勝負はそれからにしてほしい、と頼んだ。浪人の了解を得た後、茶人は、通りすがりにあった剣道場を思い出した。急いでそこに駆け込み、剣士に、尋ねた。━「侍らしい死に方をしたいのですが、どうすればよいでしょうか」。剣士は、「勝ち方を聞く人は多いが、死に方を聞いたのはあなたが初めてだ。せっかくだから、茶を一服立てて頂きましょう」と勧めた。茶人は、これが最後の茶と思い、剣士のために静かに茶を立てた。
茶人の意識から日常意識の表面的な騒がしさが一掃され、意識が深く集中した状態になっていることに剣士は、打たれた。その瞬間をとらえ、「それです。あなたの今の心境なら、いかなる相手と戦っても十分です。浪人に対したら、こうしなさい。━まず、客に、茶を立てるのだと思うのです。遅れたことを詫び、戦いの用意ができたことを告げなさい。そして羽織を脱ぎ、丁寧に畳み、茶を立てるいつものように扇子(せんす)を上に置くのです。支度を整え、相手に向き合いなさい。そして刀を抜き、上段に構え、いつでも打ち下ろす準備をするのです。それから眼をつむり、闘うために意識を鎮めなさい。相手の掛け声が聞えたら、刀を振り下ろし撃つのです。さすれば、相打ちに終わるでしょう」。━茶人は、心から感謝し、約束の場所に戻っていった。
友人に茶を立てるのと同じ心構えで、浪人の前に立ち、剣士から教わった通りに構えた。その瞬間、まったく別人がそこにいるように浪人には見えた。気合を発する機が見いだせない。どこをどう打ってよいか分からなかった。彼の前にいたのは、恐怖なき心(無畏)の体現者、大いなる無意識の体現者だった。浪人は、じりじりと引き下がり、ついに、「参った」と言って地に平伏し許しを請い、急いで逃げ去っていった。
大拙は、このエピソードの後に次のように述べる。
━禅の老師たちは、究極においてその哲学を、仏教の空(くう)と般若(はんにゃ)の教えから得て、この大いなる無意識(宇宙的無意識)を、「生と死のない生と死(永遠)」である「生命」として表現する。禅の老師にとって、最終的な直観とは、生死を超えて行くものであり、恐怖のない心境に至っていることである。彼の「悟り」が、ここにまで熟していったとき、不思議な事々が成し遂げられる。その時、大いなる無意識が、それに許された弟子たち、諸芸の達人たちに、その無限の可能性を垣間見ることを許すからである。
このエピソードは、私にとって、二つの疑問を解決してくれる道を示してくれた。一つは、不安、恐怖を、どうすれば超えることができるか。もう一つは、どうすれば持っている可能性を発揮して、願いを実現できるのか(例えば、悪漢との間に、本当の意味で調和をもたらすという結果を現実に生むことができるのか)である。その二つの問題を解決してくれる道が、瞑想・坐禅にある、と思えてきたのだ。そして、禅によって、科学の真理は勿論のこと、あらゆる分野の智慧、法則、人生全体にわたる真理が、意識・無意識を自覚することで得られるのではないかと思うようになっていった。
[注:「空(くう)」(「無(む)」とも表現される。仏典の翻訳家・鳩摩羅什(くまらじゅう)が、空を無とも訳したためで同義である)とは何か━。空は、あらゆるものがその中から出てくる、あらゆるものを成立せしめる原理であり、究極の境地であるとともに実践を基礎づけるものである。鏡にたとえられ、鏡の中には何ものも存在しないからこそ、あらゆるものを映し出すことが可能である(そこで「大円鏡智(だいえんきょうち)」<大きな円の鏡のようにすべてをあるがままに映しだす智慧>という言葉が出てくる)。我々の存在の究極原理である「空」はすべてを抱擁する。それに対立するものがない。空が排斥したり対立したりするものは何もない。「空」の真の特質は、存在の充実、あらゆる現象を成立せしめる基底である。あらゆる形がその中から出てくる。空を体得する人は、生命と力にみたされ、一切の生きとし生けるものに対する慈悲を抱くことになる。慈悲とは、空━あらゆるものを抱擁すること━の、実践面における同義語である。大乗仏教によると、あらゆるものが成立する根本的な基礎は、空である。それゆえ、「空を知る」ということは、「一切智」(全智)とよばれる。━中村元著『龍樹』より]
3冊目が、もっとも悩みが深かった頃、死さえも思った時期に読んだ、トルストイ著『人生論』(原題は「生命について」)である。生命は永遠で、生きる意味は、愛のみにあるとし、無償の愛の例として、イエスの言葉、「一粒の麦もし地に落ちて……死なば多くの実を結ぶべし」と、イエスの行為を挙げていた。そこで、「このためなら死んでもいいと思えることは何か」と、心に問いかけてみた。すると確かに、愛だけは、命と引き替えにしても生きる意味があるように思えた。そして文中に、トルストイが、読者に向けて、「私は何もいらない」と何度かつぶやいてみるように誘っていたので、実際に、つぶやいてみた。
「私は何もいらない。大学も、名誉も、命も、何もいらない、……」──瞬間、予期しないことが起きた。身体の内で、熱い光がマグマのように迸り、爆発し、心を縛っていた鉄の鎖が吹き飛んだ。体の内と外が輝き、光の奔流はとめどもなく続いて、世界が光で満たされた。周囲が、透明な光に満ちて輝き、すべてが瑞々しく光って、心が安らぎと至福で満たされた。後に、心理学で、こうした経験を、至高体験と呼び、誰にでも起きることだと知った。
私たちの心は、あらゆる期待や欲望を捨て去った時、千々に乱れていた心は統合され全体性を取り戻し、すでにすべてがあることに気づき、安らぎ、幸せ、至福が心から迸り、溢れ、解放される━。意識が、ある極限状態に入り、何かのきっかけで一気に解放された瞬間、世界とつながっている感覚が甦ることが実際に起こりうるのだと教えられた。意識の不思議さ、未知なる可能性に、ますます心が魅かれていった。
2024/7/16
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