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眠れる心に射す黎明の光━意識の目覚め・「学習の7法則」

Akira Ishibe

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石部 顯 1955年、岡山県津山市生まれ。 子供の頃、自閉症で苦労するが、高松稲荷で祈ったところ、特別支援学級の知的レベルから、10年後に東大に入り心理学を研究することへ導かれた。1980年卒業。 人間の意識が秘める力、自分を超えた大きな力が存在すること、その二つが共鳴することで開かれる、皆が幸せになる道を探究し伝えている。 最新科学と古代の叡智、東洋と西洋の文化を統合し、日本の自然・文化・こころの真価を日本の若い人たち、アメリカ人に伝えてゆきたいと願っている。 その一環として著書『真理大全 真理篇 科学篇 思想篇』を、今秋に刊行予定。
眠れる心に射す黎明の光━意識の目覚め・「学習の7法則」

 

■省察3━「東洋は遅れ、西洋は進んでいる」誤解に目覚める:受験教育と禅(ぜん)体験を通して開いた意識の可能性、ブッダが発見した意識の無限の可能性を知る

 

 西洋哲学の最先端が、東洋哲学に近づいている

 高校2年生の時、数学が真理そのものではないと知って失望し、勉強する目的も意欲も失って、何のために大学に行くのか、受験勉強がまったく手につかなくなった。一方で、禅を通して真理を体得する、道元の言う「悟り」に魅かれ、実際に坐禅をやりたくなった。手がかりを探していると、東京にいる叔母の義父が、曹洞宗(そうとうしゅう)の老師・安谷白雲(はくうん)(『禅の心髄 無門関(むもんかん)』等の著者)であることが分かった。試験の偏差値は50ほどに落ち、高3で理科系から文科系に変更して京大を受けるが、見事に失敗。叔母と、悩みを理解してくれた叔父(白雲老師の子息)を頼り、1974年(18歳)に上京、念願の坐禅に取り組むことができた。叔父は、抽象画家で、西洋哲学にも造詣(ぞうけい)が深かった。パウル・クレーの『造形思考』、メルロ・ポンティ『眼と精神』、ヤスパース『龍樹(りゅうじゅ)』、フッサール『厳密な学としての哲学』、ハイデッカー『存在と時間』等を紹介され、それらの哲学が、いかに東洋哲学に近づいているかを初めて知った。後に大学で、ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』『哲学探究』『確実性の問題・断片』を読んだが、東洋哲学を基に読み解くと、その深さも限界も、手に取るように分かった。

 

 後に、その理由が理解できた。西洋の思想家たちは皆、すでに東洋思想から学んでいたのだ。ヴィトゲンシュタインが、哲学をする前に唯一読んだ哲学書が、ショーペンハウワーの『意志と表象としての哲学』であった。彼は、それを基本的に正しいと認め、インドの詩人タゴールの詩を朗読したりしている。そのショーペンハウワーは、「ブッダ、エックハルト、この私は、本質的には同じことを教えている」と述べている。ヴィトゲンシュタインもまた、ショーペンハウワーを通して、ブッダの教えに強く影響を受けていたのだ。ハイデッカーの『存在と時間』は、道元(どうげん)の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の「有時(うじ)」に、内容が似ていると思っていたら、ハイデッカーも、鈴木大拙(だいせつ)などを通して、東洋哲学の影響を受けていたことが分かった。それどころか、ハイデッカーは、晩年、『歎異抄(たんにしょう)』を英訳で読み、もし自分がもっと若かったら、語学の勉強などせず、この親鸞(しんらん)の思想をこそ、世界に伝えたのに、真に残念だ、━とまで言っていたのだ。

 十代の終わり頃に、西洋哲学の最先端が、東洋思想に近い事実を知り驚いた経験は、その後、私の人生に決定的な影響を及ぼすことになる。人生では、必要な人や出来事には必ず出会うようになっている、と言われるが、本当にすべての出会いに意味があると思う。

 

 大学に入って出会った哲学の恩師・山崎正一(まさかず)先生(東大名誉教授。西洋哲学、カント、道元(どうげん)、東西比較思想を研究、『山崎正一全集』全10巻)は、禅寺<臨済宗(りんざいしゅう)>の住職もされていた。私の所属した東大坐禅部・陵禅会(りょうぜんかい)の顧問であり、ご自宅で親しくお話を伺うことができた。ライプニッツ、ホワイトヘッド等々の思想と東洋哲学の関係を自在に論じられ、学生たちのどのような質問にも、明解に答えて下さった。「もし、何か、カントで分からないところがあれば、坐禅をすれば分かるんだよ」とも話されていた。後で詳しく述べるが、山崎先生を通しても、改めて、欧米の著名な思想家の多くが、禅思想や仏教、東洋哲学を研究し、そこから多大な影響を受けていた事実をさらに深く知ることになった。

 

意識の可能性1━「願い」を自分に問い、明確にする

 受験時代に話を戻すと、受験勉強には、相変わらず一向に身が入らなかった。そのようなとき、書店で1冊の本『ローラ叫んでごらん』に出会う。

 1歳の時、アルコール依存症(いぞんしょう)と精神病の親に、フライパンで焼かれ、重度の自閉症(じへいしょう)になった少女の物語である。著者の精神科医ダンブロジオは、イタリア移民の貧困家庭で育ち、子供の頃、知的障害児と見なされ「特別支援学級」にいた経験がある。しかし、ある教師と出会い、普通学級に引き取られ人生が変わった。精神科医となった彼は、施設にいた12歳のローラ(病院をたらい回しにされ、5歳で統合失調症を発症、情緒的発達はなく、知的障害児、自閉症と診断されていた)に、子供時代の自分が重なり、治療を引き受けることにする。その後、時をかけて信頼関係を築き、遊戯療法でローラの心の叫びを引き出すことができた。ローラは、修道女やソーシャル・ワーカの愛情に支えられ成長し、やがて看護師となり、社会で自立を果たす━。

 知的障害児として馬鹿にされ、いじめられ、悔しさと怒りから喧嘩を繰り返していた少年時代のダンブロジオ、恐怖で頑なに心を閉ざしたローラ、━私自身と重なるところがあり、心の中で何か熱いものが動き、やりたいことの方向が、少し見える気がした。

 具体的に、それが何かわからない。が、とにかく、ローラのような子供を助けられるなら、そのような心を救う仕事がしたい、と思った。そのためには(何であれ人の役に立つためには)、必要な知識や技術は、当然身に着けていなければならない。大学受験レベルの知識など知っていて当然で、将来は遥(はる)かに高い専門知識や技術が必要になるだろう。覚(おぼ)えたくもなければ、役に立つとも思えない暗記中心の受験勉強など、教育などとは言えないとそれまで思っていた。が、それはそれとして、受験で求められる知識など早くクリアして、次に行こう、━「よし、勉強しよう」と思え、初めて勉強する意味が、自分の中で納得でき、やる気が出た。

 

 それでも暗記が中心の受験勉強は嫌で、覚えたくもないことを覚えねばならい苦痛を「精神の奴隷」と嘆き、坐禅をしている方が、やりがいがあり、比重は大きかった。入試3か月前になると気持ちが切羽詰(せっぱつ)まり、不安から逃げるように、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を3日かけて読み明かしたり、カミュの『シーシュポスの神話』で、神から与えられた業罰(ごうばつ)に耐えるシーシュポスに自分を重ね合わせたり……して、人生で、暗記・勉強など、受験を最後にして止め、あとは坐禅に打ち込もうと思った。

 

意識の可能性2━「楽しい」感動と「物語」の力が引き出す潜在力

 私が通った駿台高等予備校は、当時、東大生の半数以上が、その卒業生であり、東大に受かって駿台に落ちる人もいて、駿台に入るための予備校まであった。有名講師の英文読解(英文学がテキスト)の講義に、東大生が隠れて聴講にきていた例もある(講義が面白かったので)。日本の大学は欧米と違い、一度入ったら比較的卒業は容易なせいもあってか、大学に入ること自体が目的となり、入った途端に目標を見失い、気が抜けてしまう学生も多い(五月病につながる)。駿台の講師は、「日本で一番勉強しているのは、東大の学生より駿台の学生である」と、誇りと使命感をもって受験教育に人生を懸けておられた。

 講師陣は、多様性に富み、駿台で受けた教育は、心理学的観点から見ても学ぶべきことが多く、教育に関する重要な智慧と方法を授けてくれたと思う。世間では予備校の有名講師が注目されるが、目立たない講師の方々の中に、人間的にも教育者としても優れた方が多く、それが当時の駿台の真の強みであったと思う。その教育の可能性について、ご紹介したい。

 

 東大の西洋哲学科を出られ、受験生(だけでなく広く日本人)の英語教育に生涯を捧げられた伊藤和夫(かずお)先生(『英文解釈教室』他、著書多数)は、英文の構造を極限まで分析、法則を見出し、それを日本人の心理に合わせて習得しやすいように構成・統合した教授法、学習法を編み出された。言語学的には、英語と日本語の成り立ち、特性は、最も対極にあり、日本人が英語を習得するには様々な困難が伴う。そこで、受験で結果を出す切実な現実的要請がある条件の下で、英語を読むために必要な英文の法則と基本となる「型(かた)」をまず理解し身につけさせ、次にそれを鍛錬することでやがて法則と型が無意識下(むいしきか)に沈み、忘れることを理想とされた。剣道で、素振(すぶ)りから始まる基本の型をまず学び、身に着け、鍛錬することを通して無意識的(むいしきてき)に自在(じざい)に剣が使えるようになるイメージである。これは、すべての学問や武道、稽古事(けいこごと)の習得にも通じる一つの智慧であると思う。

 

 古文では、最初に「言葉とは何か」という言語学の最先端の問題が取り上げられ、日本語と英語の文法の違いが、どこから、なぜ生じているのかが論じられた。名訳と謳(うた)われるアーサー・ヘイリーの英訳『源氏物語』の冒頭が、実は誤訳であることを、文法に則って教えられた。本質を問う、根源を掘り下げる、疑問を追究する姿勢や方法を、講師の気配や背中から直接、吸収できた。現代国語の講師は、芥川賞候補になった小説家で、結局、現代国語の要諦は、自分の興味がある好きな作家を見つけ、その文学を徹底して読み、自分の考えを持ち、それを自分の言葉で表現することだと教えられた。全教科で、国語が一番苦手だった私でも、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読了した頃から、試験でどのような問題が出ても、7割は取れる自信がつくようになった。

 

 数学には面白い講師がいて、ごく基本的な問題を、ただ黒板に向かって、必要最低限の言葉を口にして淡々と問題を解いて見せるだけなのだが、その思考過程が、手に取るように分かるのだ。先生の緻密(ちみつ)で繊細(せんさい)な感覚が、数学の論理や解法に表現されてゆく不思議な快感を味わった。解法が複数あれば、違う解き方も表現してくれる。解答はある、というところから始まり、そこに至る道を感覚とイメージで探してゆき、感触(直観)でつかめたら、後は論理的に徐々に書き降ろしてゆく━。そのようにして問題が、自然に綺麗(きれい)に解けてゆく喜びとセンスを体験できた。一度は、興味を失った数学だったが、もう一度、その魅力と可能性━混沌(こんとん)とした現象の中にある法則性を見出し、数にして抽象化し思考して、現象を理解するために生かす楽しさを再発見することができた。

 

 日本史では、最先端の歴史研究に基づいて、厳密にいえば、日本史の教科書で、主要な事項の7割は間違っているか、あるいは事実と言い切れないことを教わった。それをミステリーの謎に迫るように解き明かし、知っているつもりの歴史的事実を覆(くつがえ)し、歴史を生きた人間ドラマとして熱く語る講師に魅了された。講義を聞こうとする学生たちが廊下にも詰めかけ、講義の最後には、自然に拍手が湧(わ)くこともあった。これを暗記しなさい、など一言も言わない。問題さえ解いたことがないのに(答を読み上げるだけ)、その講師が教えたクラスの成績は、常にトップだった。興味や関心がかき立てられ、自分で考え探究し、真実を見つけてゆく喜びや楽しさを知れば、感動とともに必要な知識・情報など知らない間に憶えてしまうものだ。逆に、「楽しい」がなければ、それがどんなに立派なことであっても、人間として成長できない。それは、心理学的にも、脳科学的にも、すでに証明されている真理である。

 

 最後に、世界史について━。高校時代、理科系にいた私は、関心が、科学から、人間・人生に移ったため、大学の文科系を受験することになり、日本史以外に、社会科からもう一科目を選択しなければならなくなった。歴史が好きだという理由から、世界史を選んだものの、ほぼゼロから独学する必要に迫られた。講師から教えられ、役に立ったのは、「歴史小説」を読むことである(例えば、モンゴル史ならチンギス・ハンの人生を描いた井上靖(いのうえやすし)著『蒼き狼』など)。歴史小説を読むことで、その時代の空気、イメージや雰囲気(ふんいき)を知り、当時を生きた人物の真情や人生に迫り、感動、共感した「情動」を中心に記憶すべき事項を結びつけてゆく方法である。想像力を使って、ヨーロッパ、エジプト、イスラエル、アメリカ、インド、インドシナ、中国、モンゴル、日本、中東、……世界各地で起きる歴史(重要な事件・出来事)が、同時に地球上の各地域でパノラマのように生起(せいき)し移り変わってゆくイメージを時系列で思い浮かべるようにした。すると、8か月ほど経った頃、世界史のどの地域、どの時代が出題されても、合格ラインとされる6割はなんとか正解できる自信がついた。東大の論述試験(総文字数約1000字)では、ある事象が、一つの地域を超えて、影響が他の世界にどう影響し波及したのか等を問われることもあり、世界の動きを全体として力動的に捉える大切さを教えられた。「好きこそものの上手(じょうず)なれ」は、人生のすべてに通じる、普遍的(ふへんてき)な「教育原理」の一つである。さらに、「好き」より、「楽しい」方が、上であるという━「これを知る者は、これを好む者に如(し)かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず(知っている人は、好きな人にはかなわない。好きな人は、楽しんでいる人にはかなわない)」(論語)。

 

 多言語習得者を初めとして、ある知識・技術を学び習得することに成功した人たちに共通する点が一つある。それは、「学び習得する過程を楽しむ方法を知っている」ことである。その楽しみ方は千差万別だが、皆、「楽しむ方法を自分で見つけている」のだ。「楽しい」がすべてである。

 

意識の可能性3━不安・動揺を静め、リラックスして「今ここ」に集中、意識の受信・発信力を向上させる瞑想(めいそう)。意識を目的に集中させる「言葉」の力について

 瞑想・坐禅(ざぜん)は、「数息観(すそくかん)」を行った。背筋を伸ばし、下腹(したはら)の丹田(たんでん)<へその下、6~9センチ辺(あた)り>に心を置く感じで、腹式(ふくしき)、丹田(たんでん)呼吸を行う。口を閉じ、鼻から出る息、吸う息を、心の中で、一つ、二つ……と数え、十に至って、また一に帰る、━これを、繰り返す(具体的には『禅の心髄 無門関(むもんかん)』安谷白雲著を参照)。息の出入りに、雑念で乱れる意識を集中させることで心を平(たい)らかにし、無心になってゆく瞑想である。それがいかに精神を安定させ、エネルギー(気)を充実させ、リラックスした心身の状態で物事に集中できるようにするものなのかについては、後で、事例とともに科学的証明を述べたいと思う。

 

 意識にとって、一番身近にある自然は、肉体であり、呼吸である。意識が波立ち混乱しているとき、呼吸に意識を集中することで心が静まり、落ち着く。私たちの意識は、普段、マインドワンダーリング(さまよえる心)状態にあることが多い。過去のことに捉われこだわっているか、未来を心配して不安に苛(さいな)まれているかのいずれかである。「今ここ」に意識はなく、今を生きていない。その意識を、呼吸に注意を向け、集中することで、過去に引きずられ未来に迷っていた状態から、呼吸━まさに「今ここ」で起きている自然現象そのものに意識を戻し、今という瞬間に「ある」「いる」ことができるように整えるのである。呼吸に寄り添(そ)い呼吸と一つになった意識には、不安や心配、恐れ、怒り、悲しみ、苦しみの想念が入り込む余地がなくなり、心身に気(き)が蓄積されるようになる。同時に、不安や焦(あせ)りで、体に余計な力が入り緊張していた身体から、すっと力が抜けて、リラックスした状態になる。全身に、血流も、気の流れもよく循環するようになり、脳も酸素だけでなく神経伝達物質(脳神経をつなぐ)ホルモンも十分に供給され、自由で活性化された状態で働くことができるようになる。そして今この時に起きているあるがままの事態を受け止める(受信)ことが可能になり、それに応じて動く(発信)こともできるようになる。

 

 また瞑想(めいそう)が、記憶力を非常に高めることについて触れておきたい。心理学で言われるように、記憶には、二つの要素がある。それは、覚えることと、覚えたことを思い出すことである。一生懸命に覚えたはずなのに、いざ本番になって、焦(あせ)りや不安、緊張で体に力が入りすぎて思い出せなくなってしまった体験はないだろうか。意識を、透明な水の湖水に喩(たと)えれば、不安や焦り、気負いや慢心(まんしん)、依存心など、心に湧(わ)く様々な雑念は、湖水の表面を波立たせ、湖底の泥や砂を攪拌(かくはん)して、水が濁(にご)っている状態である。瞑想は、その波を静め、濁りが澄(す)むように意識を浄化(じょうか)し、調(ととの)える方法と言える。そして、鏡のように平らになった水面には、外界のあるがままの姿を映すことができ、現状や問題、実態を正しく鋭敏に理解することができる。

 さらに、水の濁りが澄み、底にあるものまで、はっきりと見えるようになれば、これまで記憶した事柄、無意識(むいしき)ないし潜在(せんざい)意識に沈(しず)んでいる記憶が、スムーズに思い出せる状態になるのである。これが、瞑想が開く、意識の可能性の扉(とびら)である。坐禅(ざぜん)による瞑想━心が落ち着き集中し、揺るがず定(さだ)まった状態━には、意識という湖水の深層水まで綺麗(きれい)にし、かつ表面に雑念の波立ちをつくらない、心を整える力がある。その力がついてくれば、意識のエネルギーを、全体に開きながら部分にもシャープに焦点(しょうてん)できる、強くて柔軟、大胆で繊細、自由で応用自在な意識の機能を最大限に発揮することができるようになる。脳科学でも、瞑想が記憶力を高め、脳内ホルモンの分泌に影響を及ぼし、免疫力(めんえきりょく)を上げ、心身の活性・健康を促すことが証明されている。

 [注:道元(どうげん)は、心に安寧(あんねい)と静寂、安らぎを与える坐禅を「大安楽(だいあんらく)の法門(ほうもん=方法)」と呼んだ。幕末維新(いしん)で活躍した勝海舟(かいしゅう)、山岡鉄舟(てっしゅう)らは、「剣と禅」を併(あわ)せて修行した。海舟は、禅で鍛えた胆力(たんりき)で、幾つもの難局に「命を捨ててかかり乗り切った」と証言し、鉄舟は、禅の鍛錬で開眼、刀を使わない施無畏(せむい、恐れない心)の剣「無刀流(むとうりゅう)」を開いた。昔の日本人が、当り前のように重視していた腹(はら)を練(ね)る鍛錬(たんれん)は、人間力のある「腹のできた」人間を育てる上でも、さらに科学的に研究され、再評価されるべきだと思う。]

 

 次に、意識の可能性を開く「言葉」の力について見てみたい。乱れた心を落ち着かせ、見失いやすい願いや目的に立ち還(かえ)らせるための言葉を持つことは、重要である。苦難や試練に揺さぶられると、不安、焦(あせ)り、諦(あきら)め、孤独に心が支配され、ネガティブな感情に呑(の)み込まれてしまいそうになる。そのような心を支え、ネガティブからポジティブへ意識を転換する力が、言葉にはある。揺れる心を立て直し、安定させるとともに向かうべき方向に意識のエネルギーを向け、集中するために言葉は大きな力を発揮する。

 

 言葉には、思考のエネルギーの力と方向(ベクトル)を、その言葉が指し示す方向にもってゆく━的(まと)に焦点(しょうてん)させ、引っ張ってゆく━はたらきがある。言葉は、思考の向かうべき方向を決めるだけでなく、さらに言葉から触発(しょくはつ)される感情・感覚・意志を喚起(かんき)し、すべてを思考の方向に向かって統合・収斂(しゅうれん)させてゆく力がある。つまり、願い、目的、果たしたい志(こころざし)、そのターゲットに向かって、全エネルギーを総動員させ奮(ふる)い立たせる力が、言葉にはある。

 [注:歴史に残る、国難を救った演説もあれば、危機的な状況を救う言葉、人に生きる気力を蘇(よみがえ)らせた言葉もある。道元(どうげん)は、「愛語(あいご)よく廻天(かいてん)の力あることを学(がく)すべきなり(愛語が天をも回(めぐ)らせる力をもっていることを知りなさい)」と教えている。]

 

 受験時代の私にとって、そうした言葉となったのが、『ブッダのことば』(中村元訳)━生前のブッダの言葉に、最も近い最古の仏典(ぶってん)である。短い警句(けいく)のようなアフォリズム形式で語られてゆく。私が支えらえたのは、ブッダが求道者を励ます言葉で、40ほどの句のすべてが、最後、「犀(さい)の角(つの)のようにただ独(ひと)り歩め」という言葉でしめくくられていた。例えば、「今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得難い。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀(さい)の角(つの)のようにただ独(ひと)り歩め」といった感じである。リズム感のある切れのいい律動(りつどう)と繰り返しで、言霊(ことだま)の波動が心に深く強く響いて、心の底からエネルギーが引き出されてくるような力がある。心が揺(ゆ)れる時、気力が萎(な)えそうになる時、不安な時、この「ブッダのことば」の数行を読むだけで、心がすっきりし、落ち着き、何が大切なのか、何のための勉強なのか、願いに立ち還(かえ)ることができ、現実に向かう力を得ることができた。

 人それぞれに、自分の心を前向きにもってゆける一言、何かあっても心を立て直すのに力のある言葉、ことわざ、好きな歌の歌詞の一節、魅(ひ)かれる偉人の言葉、格言、あるいは気持ちを前向きにする「つぶやき」など、自分に合った「支えとなる言葉」を持っておくとよいと思う(例えば、「人事(じんじ)を尽(つ)くして天命(てんめい)を待(ま)つ」「不安を募(つの)らせるより現実に飛び込む」「諦(あきら)めたら、そこで試合終了」。信仰のある方なら、信じて自分を托(たく)せる大いなる存在の名を称(とな)えるのもよい(「南無観世音(なむかんぜおん)」「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」「南無大日如来(なむだいにちにょらい)」「神、我と共にあり」等)。そして、自分を励まし支える言葉、ネガティブな思いをポジティブに転換する言葉を、折に触れて、心の中で、つぶやいたり、念じたり、唱(とな)えたりする。口に出してもよい。とりわけ、心が否定的、悲観的、ネガティブな思い癖(ぐせ)や感情に呑(の)みこまれそうになった時にこそ、一念(いちねん)を転換する、そうした言葉が、力を発揮する。意識は、必ずその言葉の方向に引っ張られてゆく法則を活用することをお勧(すす)めしたい。

 

 気をつけたいのは、ポジティブな言葉が、明るく前向きな建設的方向に心をもって行く力があるように、ネガティブな言葉もまた、限りなく否定的な方向に意識をもってゆく力があることだ。それは自分だけでなく、他の人をも巻き込み、傷つけ、破壊的な作用さえもたらすものなので、心したい(親が子にかける、何気ない言葉やフレージングもまた、子供の成長や人生に大きな影響を与える)。言葉と想念の力が蓄積し習慣力を持ち、増幅(ぞうふく)していったとき、人生、運命の方向を変えるほどのエネルギーになる。自分が、普段どのような言葉を使い、無意識(むいしき)につぶやいているか、意識化することで、無自覚(むじかく)に、その方向に人間関係や人生を作っていることに気づくことができる。そして、ネガティブな言葉、つぶやきや内言を、気がついたらとどめ、逆に、ポジティブな言葉に換えてゆくことで、運命を好転(こうてん)に導くことさえできる力が、私たちには備(そな)わっていることを積極的に生かし、使ってゆきたいものである。

 

〇学習の7法則━受験は、願いを発見し、人生を創造するワン・ステップ、意識の可能性を開いて成長するチャンス

 受験という人生の一つの試練を、自分の意識の可能性を開いて、人として成長するための機会として見た方がよいと思う(受験教育・体制の問題は、別として)。その後も、人生で試練に遭遇(そうぐう)した時、対処するために役に立つ、普遍的(ふへんてき)な真理法則を身に着ける機会にしてほしい。

 最後に、自閉症で特別支援学級の知的レベルから始まり、受験体験を通して、自覚できた意識の可能性を開くアプローチについて、心理学の観点から、「学習の7法則」として抽出(ちゅうしゅつ)しておきたい。これは単に学習のみならず、あらゆる目的の実現、創造、問題解決、人生で遭遇(そうぐう)する試練(しれん)や苦難を超える際にも有益な法則であると思っている。

 

1.願い(目的)を明確にする。

 何事も、達成されるか、されないか、その第一の要因は、自分の意識の奥にある本心(ほんしん)からの願いに気づくかどうかにかかっている。それが本物の願いであるかどうかによって、引き出される意識の潜在力(せんざいりょく)、エネルギーの大きさが決まるからである。このことなら、やっていて、心から楽しい、喜びがある。夢中になって時間が過ぎるのを忘れる。心が静まり、何かそこはかとなく幸せな思いが湧(わ)いてくる。それをしている時、もし死が訪れたとしても本望(ほんもう)である。人生を懸(か)けてもいいと思える、実現すると思うだけでわくわくしてくる等々、それぞれが、本来、潜在意識(せんざいいしき)に持っている動機(どうき)、願い、目的(人生の仕事、志(こころざし)、使命(しめい)に、どれだけ気づき、意識化できるか━。答えは、本人の中にある。そして、それだけは自分で見つけるしかない(人から言われても、駄目なのである)。

 もちろん、初めから、自分の本当の願いを、明確に意識化できる人などいないだろう。様々な人や出来事との出会い、ご縁(えん)を通して、「思い出す」ものなのである。そして願いは、人生を通して、深まり続ける。その手がかりは、子供の頃から、十代までの間に、何かしら与えられていることが多い。ただ、何時(いつ)、それに気づくか、自覚するか、思い出すかは、人それぞれである。自分が最も感動したこと、嬉しかったこと、楽しかったこと。逆に、最も悲しかったこと、苦しかったこと、辛かった体験の中にも、心深く潜んでいる願いを発見する糸口がある。自分を苦しめる弱さ、業(繰り返される過ちの原因)の裏に、願いがあることも多い━。限りなく「本当に願っていることは何か」を自分に問い続けてゆきたい。願いは、彫琢(ちょうたく)されて、より鮮やかに姿を顕(あらわ)す。

 

 私も、本当のことを知りたい、普遍的(ふへんてき)な真理を探究する楽しさとともに、親しかった人、愛する人との別離や、相次いで父親が他界(たかい)した友人たちの悲しみに出会ったこと等が、何のために生きるのか、心の奥に、人生の目的と願いを問いかけ、見出すために必要な出来事だったと思う。その時は、どれほど辛(つら)く悲しくても、自分の願い・生きる目的に目覚めるために、誰の人生にも起こり得る不条理(ふじょうり)な出来事や、心に空洞(くうどう)を穿(うが)つ体験をしたことに意味と必然があったと思えるようになった。そして、時間をかけて少しずつ、そうした体験を与えられたことに、感謝の思いが湧(わ)いてくるようになった。私が本当に知りたかった、自然と人間を貫く真理を求める願いと、悲しみから救われたい、救いたい、皆が幸せになる真理を体得し、分かち合いたいと願う思いが、一つにつながっていることを知った。真理の探究と、心の救済・開花は、一つのテーマであり、これこそが、自分が人生を懸(か)けてやりたい願いであることが、徐々に明確になっていった。すべての悲しみと苦しみに意味がある。今なら、人生に、無駄(むだ)なことは何一つないと、確信をもって言うことができる。

 

 次に、願いから生まれたビジョン(願われる未来像・青写真(あおじゃしん))を、ビジュアル(絵)に生き生きと思い描(えが)き、心の底から湧(わ)いてくる意識のエネルギーをくみ出して生きることである。自分の本当の生きがい、喜び、楽しさが、どこにあるのか━。その熱い思いが、助力者や、ベストの手段を引き寄せ、願いに応えるように道が開かれてゆく現実につながる。

 自分は、本当は何をしたいのか、将来何をしていたいのか。イメージがリアルであればあるほど、あなたをその未来に牽引する強力な力となる。手段や協力者も、強いイメージに引き寄せられるようにはっきり見えてくる。願いの意識化については、これでよい、もう分かった、という終わりはない。本心に問いかけ、対話を深め、意識を深く掘(ほ)り下げ続ける。試練のたびに、願いを、深化(しんか)し続ける。より深い意識の潜在力(せんざいりょく)、智慧(ちえ)、可能性を引き出すには、願いもまた、より深く、強く、中心に近づいてゆく必要がある。

 願いは、試練によって研(と)ぎ澄(す)まされ、彫琢(ちょうたく)される。それが、本物に近づけば近づくほど、深ければ深いほど、本質的であればあるほど、それだけ深く大きなエネルギー、見えない助力、無限の可能性とともに生きることが可能となる。自分のこと、目先のこと、欲(学歴・地位・名誉・財産等)だけに捉われると、人間と自然を貫いて流れる大きなエネルギーの法則に逆らっているため、一時は成功したかに見えて、最終的には、自分と周りを不幸にすることになる。「己心(こしん)の魔(自分の心に巣くう煩悩)」に向き合い、対治するすることが、願いの発見と実現に至る道(降魔成道)となる。

 

2.マインドフルネス瞑想(めいそう)で、心身にエネルギーを充実させ、集中力を高める

 リラックスした状態で、意識を活性化させ、意識の表面のさざ波を鎮(しず)め、深い集中に入る。心理学で、「ゾーン」「フロー」と呼ばれる心身の状態を整えることで、潜在意識(せんざいいしき)と世界にあるエネルギーを引き出す可能性が開かれる。それは、あらゆるパフォーマンスにおいて、きわめて有効であることが科学的にも証明されている(後で詳述)。

 

3.意識を統一して目的に集中させる「言葉」を念じる

 生きる指針、助け、支えとなる短い言葉を、不安、心配、諦(あきら)め、否定、絶望といったネガティブな思考・感情に捉われそうになる度に、心で唱(とな)えたり、読んだり、噛(か)みしめたり、つぶやいたりしながら、そのたびに、前向きな気持ちに転換する。それが習慣になると、徐々に否定的な想念の流れが弱まり、やがて肯定的な意識に上書(うわが)きされることになる。落ち込んでも、早めに立て直す習慣力ができる。また、自信過剰(じしんかじょう)、思い上がり、傲慢(ごうまん)、人を見下す、見くびる思いも、ネガティブな思考・感情、意識の乱れであり、潜在意識とのつながりを断つ弱点である。肯定的、前向き、建設的な意識に変えてゆきたい。

 私たちの心は、常に外界の刺激に翻弄(ほんろう)され、揺れ動くものだ。その前提で、自分の意識の弱みを意識化しておき、それが揺さぶられたとき、できるだけ早く立て直せるように準備してゆきたい。言葉の持つ力、可能性を最大限に生かすことで、意識の可能性を引き出すことができる。

 

4.感動は、学習の原点━「好き」「楽しい」「喜び」「物語」で、想像力・記憶力・創造力を解放する。

 何より、感動したこと、心が強く揺さぶられた体験は、記憶しようと思わなくても意識に深く刻まれ、記憶に残る。細かなことは、それに付随(ふずい)させ、結びつけるようにして覚えればよい。好き、楽しい、好奇心(こうきしん)が魅かれる、喜びは意識の可能性を開く鍵である。特に、子供(自閉症児を含めて)は、この内発的自然感覚・感情から少しずつ心を開き、可能性が開かれてゆくようにするのがよい(これは、大人も同じである)。

 好きなこと、興味のあることに、没入(ぼつにゅう)する、夢中になることは、潜在意識の可能性を引き出す道である。意識を強く集中して探究するとき、自我を忘れ、無心(むしん)になり、潜在意識の可能性との交流が深まる。また、感動するストーリー、物語には、潜在意識に働きかけ、強く揺さぶり動かす力がある。物語が持つイメージ、言葉、情動は、心と脳を深く活性させる。大いに活用すべきである。

 

 5.イメージ・絵に描いて、言葉・論理(左脳)と感性・直観(右脳)を全機(ぜんき)させる。

 想像力に訴えるイメージ・絵には、感覚・感情・思考・意志の全体に、瞬時に働きかけ、意識・無意識(むいしき)にあるエネルギーを引き出す力がある。意識の記憶には、様々な情動(じょうどう)が、それにつながる情景(絵)と言葉とともに、一塊(ひとかたまり)のエネルギーとして息(いき)づき、存在している。言葉、論理<左脳>では表せない感覚、雰囲気(ふんいき)、感情<右脳>も、絵なら表せる。問題を解く場合でも、言葉だけで考えるより、感覚や感情を総動員した方が、絶対に解答に辿(たど)り着きやすくなる。

 言語学習では、言葉(単語)・イメージ(絵)・感情(情動)の3点セットがなければ、深く記憶されない。また数学でも、文章問題を、一度、絵や図に書いて表現してみるとよい。問題を、絵や図で表しているうちに、何が問題なのかがよく分かり、解法が自然に見えてくるものだ。イメージ、絵、図には、右脳を使い、左脳と協働して意識の可能性を開く力がある。アインシュタインは、自分はイメージを使って考え、言葉や数式を使って思考することはない、と言っている。言葉が遅れている発達障害や学習障害を持つ子供たちにも、イメージや絵図を生かすことで開かれる可能性が大いにあると思う。もっとイメージや想像力を、自発的に使い、伸ばしてゆける教育が望まれている。

 

 6.自分の心に深く問いかけ、真理・本質に向かって掘(ほ)り下げる

 疑問を持ち、深く自分の内に向かって問いかける。問いかけが、本質的であればあるほど、より深く意識の奥に入ってゆける。強い疑問が、大きな気づきや発見を引き寄せる「磁石(じしゃく)」となる仕組(しく)みが、意識にはある。受験期で、徹底して疑問を追究する時間がなくても、抱いた疑問は大切にしたほうがよい。後の人生で、発見が訪れることがある。

 

 7.「型(かた)(基本パターン)」を守り、本質は深め続け、型を破り、型を離れる

 「型」とは、長い時をかけ、先人(せんじん)によって究(きわ)められ、練(ね)り上げられ、洗練(せんれん)された智慧(ちえ)の結晶である。まず、型を学び、それを無意識(むいしき)に使えるまで鍛錬(たんれん)し身に着ける。型は、身に着ける過程で、自らの潜在意識にある記憶、智慧、力を引き出す力にも転化(てんか)されてゆく。能(のう)の世阿弥(ぜあみ)は、芸のまことを求め、究める過程を、型を守り、破り、離れる━「守破離(しゅはり)」と説いた。型を身に着ける「守(しゅ)」の段階を経て、他の方法、流派、道に学び、自分で考え工夫して、型を破り表現する「破(は)」━。そして、オリジナルな個性と天賦(てんぷ)の才を思う存分に発揮して表現する「離(り)」に至る。ただし、基本・本質は、破、離においても一貫して求め深め続けること。これは、あらゆる教育、道を究める修行において、誰もが歩むことになる道と言える。

 

 受験では、膨大(ぼうだい)な量の情報を、いかに早く理解、記憶して、要請に応じて使えるようになるか、その情報処理能力が鍛えられる。問題として問われる内容と形式は、ほぼ決まっている。求められる答え・解法にも、パターン(型)がある。それらを理解し、問題と解法のパターンを、志望大学が要求するレベルに応じて身に着け、決められた時間内に解答できるようにすることが求められる。そして、それが試験問題である限り、いかなる難問であれ、それを構成している幾つかの問題の要素に分割し、個々の要素の問題を解いて、それらの答えを組み合わせることによって最終的に解くことができる。こうした問題解決の力は、すでに答えの分かっている問題に対しては、社会に出てからも、ある程度は、役に立つだろう。

 しかし、これからの時代は、答えのない問題を、どう自分で自発的(じはつてき)に見つけ、考え、解決してゆくか、新しい発見や創造をしてゆくことが、切実に求められている。受験のテクニックや能力だけを磨いてきた人は、逆に、「常識」の枠から出ることができず、自由な発想、想像力、独創性(どくそうせい)、創造性(試験では測れない)が引き出されないまま来ている場合が多い。それは同時に、本心から、好きなこと、楽しいこと、やりたいことが見つけられていないことでもある。それでは、本当の意味で幸せであるとは言えないだろう。実用的知識・暗記を偏重(へんちょう)し、教養(きょうよう)を軽視する教育の課題の一つである。

2024/8/27

Tags:内宇宙の旅

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