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鈴木大拙―世界人としての日本文化の伝道者
【書評】『鈴木大拙―願行に生きるその生涯と西田幾多郎との交遊(上)(下)』竹村牧男
両親が亡くなってから久しく空家になっていた郷里の家をいよいよ解体することになり、この10月と11月には幾度も香川に帰省した。解体する前に大切なものを運び出すため、家の片付けを行った。何十箱もの段ボールに詰めて運び出したのだが、一番多かったのが茶道具だった。正直いってこんなに多くの茶道具が残されていたことは驚きだった。母が茶道の師範であり、父が古美術商の資格を持っていたので、ある程度の茶道具が残っていることは予想していたが、楽、萩、唐津、九谷、備前、朝鮮などの茶碗、水差し、建水、茶入れ、香炉、花瓶、掛け軸など次々と出てきて、ひとつづつ目を通して仕分けるのが大変だった。
父は前立腺癌の転移で、母は大腸癌で亡くなったのだが、身辺整理の時間は十分あったはずなのに二人とも茶道具の処分は行わなかった。片付けをしていて、どうも二人とも子供や孫たちがいつか日本文化の詫びや寂びを楽しむであろうことを信じて、そのまま残したことに気づいた。
鈴木大拙は日本文化の詫びの特性を「この点において、多様性のなかに超越的な孤絶性―日本の文化的用語辞典では、わびと呼んでいるものをわれわれは鑑賞するのである。わびの真意は<貧困>、すなわち消極的にいえば<時流の社会のうちに、また一緒に、おらぬ>ということである。貧しいということ、すなわち世間的な事物―富・力・名に頼っていないこと、しかも、その人の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、最高の価値をもつものの存在を感じること―これがわびを本質的に組成するものである。」と説明している。私が70歳を越えて詫びや寂びの美学、茶室の床の間に掛けられた墨蹟を少し楽しめるようになったのは、大拙の著作からの学びが大きい。
本書は、竹村牧男教授によってまとめられた世界人として日本文化の伝道に生涯を捧げた大拙の概説書である。NHKラジオの「宗教の時間」での講義用テキストとしてまとめられたものである。上巻では、主に大拙の生涯とその人となりが概説されており、下巻では、浄土思想、禅思想、華厳思想など大拙の主な思想が概説されている。親友の西田幾多郎との交遊に注目して、大拙の思想形成の過程が詳説されていることも、本書の特徴である。
著者の竹村教授は、学生時代に東大仏教青年会禅会師家の秋月龍珉老師に師事した。鈴木大拙は生涯を通じて海外での布教に忙しかったこともあり、個人的に内弟子を取らなかった。秋月龍珉が唯一の内弟子だったようである。したがって竹村牧男は、鈴木大拙の直系の孫弟子にあたる。本書は易しく解説されてはいるが、その孫弟子による鈴木大拙論の決定版である。大拙の思想の核心が明快に解説されており、優れた大拙思想の入門書となっている。
本書を読んで改めて思うことは、大拙の日本的霊性、日本文化へのこだわりである。日本的霊性の解明は、海外で長く生活し、当時の西洋の最高の知性たちと自由に交遊した大拙だけがなしえた偉業であろう。大拙は西洋の近代化の特徴を”divide and rule”(部分に分割して部分を管理する)ととらえ、その光と影を見抜いていた。来るべき新しい時代の指針を東洋思想の無縁の大悲と事事無礙法界観に見出したことに、本書は改めて気付かせてくれる。
また大拙の思想の根幹には、禅の修行による自由の体験、さらにそれをおし進めて自覚された大乗菩薩の願行に生きる安心があったことに改めて気付かせてくれる。日本文化の特質を日本人の霊性から理解することは、混迷の時代に日本が進むべきこれからの指針となり、日本が世界に貢献すべきミッションを自覚させる。華厳思想の事事無礙法界に基づいた覇権主義の否定と民族自決の尊重に貫かれた大拙の思想は、今もまったく色あせていない。
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「天地自然の原理そのものが、他から何の指図もなく、制裁もなく、自ら出るままの働き、これを自由というのである。・・・ものがその本来の性分から湧き出るのを自由という。神の創造はこの意味で自由のはたらきである。自由は妙用である。この妙用がわかるとき、自由の真義がわかる。リバティやフリーダムの中からは、創造の世界は出てこない。」(鈴木大拙)
「シナの仏教は因果を出で得ず、インドの仏教は但空の淵に沈んだ。日本的霊性のみが、因果を破壊せず、現世の存在を絶滅させずに、しかも弥陀の光をして一切をそのままに包被せしめたのである。これは日本的霊性にして初めて可能であった。・・・・
日本的霊性の情性的展開というのは、絶対者の無縁の大悲を指すのである。無縁の大悲が善悪を超越して衆生の上に光被してくる所以を、最も大胆に最も明白に闡明してあるのは、法然―親鸞の他力思想である。絶対者の大悲は悪によりても障ぎられず、善によりても拓かれざるほどに、絶対に無縁―即ち分別を超越しているということは、日本的霊性でなければ経験せられないところのものである。」(鈴木大拙)
「霊性の奥の院は実に大地の座にある。平安人は自然の美しさと哀れさを感じたが、大地に対しての努力・親しみ・安心を知らなかった。したがって、大地の限りなき愛、その抱容性、何事をも許してくれる母性に触れ得なかった。・・・・
人間は大地において自然と人間との交錯を経験する。人間はその力を大地に加えて農産物の収穫につとめる。大地は人間の力に応じてこれを助ける。人間の力に誠がなければ大地は協力せぬ。誠が深ければ深いだけ、大地はこれを助ける。人間は大地の助けのいかんによりて自分の誠を計ることができる。大地は偽らぬ、欺かぬ、またごまかされぬ。人間の心を正直に映しかえす鏡が人面を照らすが如くである。大地はまた急がぬ。春の次でなければ夏の来ぬことを知っている。蒔いた種子はその時節がこないと芽を出さぬ。葉を出さぬ、枝を張らぬ、花を咲かぬ、したがって実を結ばぬ。秩序を乱すことは大地のせぬところである。それで人間はそこから物に序があることを学ぶ、辛抱すべきことを教えられる。大地は人間にとって大教育者である、大訓練師である。人間はこれによって自らの完成をどれほど遂げたことであろうぞ。」(鈴木大拙)
「法界の真相は事事無礙を会するとき初めて認覚せられるのである。理事無礙としての法界は哲学者にも神学者にもほぼ通ずると思われるが、事事無礙の法界は彼らの未だ至り得ざらぬところであると信じる。この最後の法界観は汎神論でもなければ、汎一神論でもない、また神秘論と同一視せられるべきでもない。心すべきである。・・・・
事事無礙に突入することによって、東洋思想の絶嶺に攀ったと言える。」(鈴木大拙)
「大拙君は、高い山が雲の上へ顔を出しているような人である。そしてそこから世間を眺めている。否、自分自身をも眺めているのである。全く何もない所から、物事を見ているような人である。・・・君には何等の作為というものは無い。その考える所が、あまりに冷静と思われることがあっても、その底には、深い人間愛の涙を湛えているのである。」(西田幾多郎)
「個は個に対することによって個である。それは矛盾である。しかしかかる矛盾的対立によってのみ、個と個とが互いに個であるのである。しかしてそれは矛盾的自己同一によってと言わざるを得ない。何となれば、それは絶対的否定を媒介として相対するということである。個と個とが、各自に自己自身を維持するかぎり、相対するとは言わない。したがってそれは個ではない。単なる個は何物でもない。絶対否定を通して相関係する所に、絶対否定即肯定として、矛盾即同一なる、矛盾的自己同一が根底とならなければならない。それは絶対無の自己限定と言ってもよい。」(西田幾多郎)
「以上、大拙の<自由>論を見てきました。これをまとめてみますと、大拙にとって自由とは、①西洋風の圧迫からの解放としての自由ではなく、②そのものがそのものであることが根本であり、③それは自性からはたらく妙用として発揮される、ようなものなのです。その主体性は、霊性の自覚に基づくべきものなのであり、一方、科学・技術や社会体制によって失われてはならないこと、よく留意すべきなのでした。なお、その妙用にはたらく主体性は、さらに、④それ故、無功徳・無功用・無報酬の行為となり、⑤おのずから他者への慈悲行三昧となって展開する、ものでもあるのです。そのような、大乗仏教の菩薩の根源的な主体性こそに、自由ということは見出されるべきものなのです」(竹村牧男)
「しかし華厳思想では、理は空性であるがゆえに消えて、さらに事事無礙法界に進んでいくのです。事と事とが無礙に融け合うというのです。たとえば、松は竹であり、竹は松であって、しかも松は松、竹は竹だという。私は汝であり彼・彼女であり、汝や彼・彼女は私であって、しかも私は私、汝は汝、彼・彼女は彼・彼女だというのです。こういうことが成立するのは、究極の普遍(絶対者、神)が、空性そのものであるからです。この事事無礙法界の思想は、もはや西洋には見られない、東洋思想の精華であると大拙は言います。・・・・
自他を超えるものの中に包まれていて初めて自他であるという。そのことが認識されたとき、自己は自己のみで成立していたという考えは否定され、すなわち自己が否定されることになります。この否定を経て自己を超えるものに生きるとき、同じくそこにおいて成立している他者をも自己と見ることになるでしょう。あるいは、自己に他者を見、他者に自己を見ることにもなります。これは事事無礙法界の理論であり、その無礙なる事事を人人に見た場合のことに他なりません。相互に人格を尊重しあう世界は、こうして仏教の華厳的世界観から説明されるというわけです。」(竹村牧男)
「この<真誠の安心は衆生無辺請願度に安心するに在り>の省悟は、私としては、むしろ<ひじ、外に曲がらず>の悟道をさらに上回る、根源的な宗教体験であったと思うのです。以来、大拙はその生涯を、ひたすらこの願行に生きたといってよいでしょう。ここに真の宗教者としての大拙が誕生したと言うべきかと思います。」(竹村牧男)
「今日の地球社会では、生成系AIが普及・浸透の兆しを見せるなど、人間存在の本来の人間性(さらには霊性)がますます浸食されるような、恐ろしい事態を迎えています。人類の未来にとって、実に危機的な局面を迎えています。しかしながら、だからこそ今、人間存在の本質を深く問い、その本来の面目を取り戻さなければならない境位にあることは、間違いありません。
大拙によれば、その本来の人間性とは、自由であり、創造性であり、また報酬を顧みないはたらきとその自足的なあり方でもありました。その内実は、自己と一体でありかつ関係しあう他者の苦悩からの解放を切に願い、止むにやまれぬ思い(祈り、願)から行為に出る自律的内発性とでもいうべきものでした。」(竹村牧男)
「大拙という人を一言で語るなら、世界の精神的文化に、日本あるいは東洋の思想をもって貢献したいという、この願に生きぬいた人と言えるでしょう。」(竹村牧男)
2024/11/26
Comment
「貧しいということ、すなわち世間的な事物―富・力・名に頼っていないこと、しかも、その人の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、最高の価値をもつものの存在を感じること―これがわびを本質的に組成するものである。」
無一物中無尽蔵(なに一つないところに、無限の尊いものがある)、
侘びしい、ところにある、限りない豊かさ、寂しいからこそ出会える、
無限の愛と慈悲の光━。
「日本的霊性のみが、因果を破壊せず、現世の存在を絶滅させずに、しかも弥陀の光をして一切をそのままに包被せしめたのである。これは日本的霊性にして初めて可能であった。」
事事無碍法界、無限の煩悩と深淵なる業を、抱いたままで救われている事実を悟ることが、
日本的霊性の自覚なのですね。
「無縁の大悲が善悪を超越して衆生の上に光被してくる所以を、最も大胆に最も明白に闡明してあるのは、法然―親鸞の他力思想である。絶対者の大悲は悪によりても障ぎられず、善によりても拓かれざるほどに、絶対に無縁―即ち分別を超越しているということは、日本的霊性でなければ経験せられないところのものである。」
こうした日本的霊性は、豊かな日本の自然に抱かれ、1万数千年続いた縄文時代から培われ、
今日の私たち日本人のDNA(2,3割は縄文人の遺伝子)にも、引き継がれているのですから、
ぜひ、この遺伝子のスイッチをONしましょう。
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