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- 仏教全体から見た空海思想の解明 -新空海論-
仏教全体から見た空海思想の解明 -新空海論-
書評『新空海論―仏教から詩論、書道まで―』竹村牧男著
空海は讃岐の屏風ヶ浦に生まれ、その誕生地には善通寺が創建されている。実は私はこの善通寺のすぐ近くの借家で生まれた。善通寺の伽藍をヨチヨチと歩いて皆から手をたたいてもらった記憶が今もおぼろげに残っている。遅くなって生まれた男の子だったので、父は弘法大師のご加護を感じて、私の名前を光弘にした。光弘の「弘」の字は弘法大師からもらったものである。
このように空海とは生まれた時からご縁があったのだが、空海の思想を学んだのは本書の著者の竹村牧男教授の一連の著作からが初めてである。中学3年生の時に和宗の斎藤眞諦老師について仏教を学び始めたのだが、眞諦老師は空海に厳しかった。老師にとっては、満濃池の築池工事は当時唐で世界最高水準の土木工学を学んできた空海にとっては成果を急ぐあまりの手抜き工事であり、信者が唱える「南無大師遍照金剛」(遍照金剛は空海の別名)の言葉には大師号を独占した僧侶の姿が見えていたようである。弟子の中から呪詛を生業とする者が出た歴史的事実も大変嫌っておられた。この様な空海批判を身近に聞いていたこともあり、長らく空海の思想に近づくことはなかった。
本書の著者は、この数年来空海思想の研究に精力的に取組んできた。その研究成果として、これまでに『空海の哲学』(講談社, 2020)、『秘密宝鑰を読む』(春秋社, 2020)、『唯識・華厳・空海・西田―東洋哲学の精華を読み解く』(青土社, 2021)、『空海の言語哲学』(春秋社, 2021)、『空海の究極へ』(青土社, 2022)が上梓されている。Ⅰは空海の人間理解のため、Ⅱは空海の密教思想理解のため、Ⅲは空海の芸術理解のための三部構成になっている本書は、著者のこれまでの空海研究の集大成であろう。
タイトルにあるように、本書はどうして新空海論なのであろうか。序文で「ただ密教だけしか知らない方に比べて、仏教全般に一定の理解を有している立場をふまえ、新鮮な視点を相当数、提供できるのではないかと思います」と、本書執筆の動機が率直に語られている。これまでの空海論がどういう内容だったのかについて全く疎い私には、何処が新しい視点なのかを判断することはできないのだが、次の三つの視点を紹介したい。
まず第一は、インド僧般若三蔵と空海の邂逅を再評価したことである。これまでの空海論では、恵果阿闍梨との邂逅が多く語られてきた。大日如来から始まる密教の法を空海は恵果阿闍梨から相承したのだから、これは当然であろう。一方、般若三蔵については、恵果阿闍梨に出会う前に長安でサンスクリット語を習った師としての紹介が多かったように思う。
本書では、空海が『華厳経』の翻訳者である般若三蔵から直接に『華厳経』を学んだことの意義に光があてられている。『華厳経』の底流には普賢菩薩の誓願があるが、この誓願は空海の生涯を貫いた誓願でもあったことが指摘されている。空海が将来した「普賢行願讃」の梵本は、おそらく般若三蔵から直接手渡されたものであろう。帰朝後の空海は東大寺の別当も務め、『華厳経』の布教に努めている。
「般若三蔵は自分が訳した四十巻『華厳経』を空海に授与しつつ、思い入れをこめて日本に持ち帰り広めよと語るのでした。・・・・空海のかの<高野山万灯会の願文>の<虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願も尽きん>という<我が願>は、実はこの般若三蔵訳『華厳経』に出る普賢菩薩の十大願を基礎としたものであったと考えられるものではないでしょうか。」
新空海論の第二の視点は、即身成仏の意味を再考したことである。これまで即身成仏は、月輪観、阿字観、三密加持などの密教の修行によって実現するものと考えられてきた。しかし、実は我々は法然に成仏を実現している、という空海の言葉が取り上げられている。
「<法然に薩般若を具足して>とは、誰もが本来、智慧を具足し、覚っていること、仏であることを示しています。くどいようですが、したがって<成仏>と言っても、<仏と成ること>以前に、<仏として成就していること>なのです。このことを明確に説くのが、『大日経開題』(法界妙心)の中での<成仏>の解説です。・・・・このように成仏とは要は、修行によって仏に成ること、つまり因縁所生ではなく、すでに仏として法爾所成であることを意味しているのだというのです。」
第三の視点は、曼荼羅の意味を再考したことである。実は我々は曼荼羅世界に生きていることが、明らかにされている。
「この智の具体的なはたらきを三密と受け止める、世界は本来、諸仏諸尊及び諸衆生の三密が<互相に加入し、彼此摂持>している世界ということができます。しかもその全体がそっくり自己であるのです。まずはこの空海の立体的・動態的な世界観を明瞭に了解しておかなければなりません。曼荼羅とは、まさにこの立体的・動態的・重々無尽的人人無礙の世界のことであることを、よく了解すべきです。・・・・
実に、諸仏・諸菩薩・諸衆生等(胎蔵海会の曼荼羅・金剛界会の曼荼羅の各身)の間で、各身の四種曼荼羅が重々無尽に交渉・円融しあっている世界が、曼荼羅という一つの言葉に秘められているわけです。しかもその全体の中に自己は生かされており、その全体が自己なのでもありました。<重重帝網のごとくなるを即身と名づく>とは、そういうことを意味していたのです。」
これまでの空海論に親しんできた読者には、我々は既に成仏しており、諸仏、諸菩薩、諸衆生等が重々無尽に交渉・円融しあっている曼荼羅世界が実はこの自己である、という著者の指摘に違和感を憶えるかも知れない。しかし、空海の言葉を仏教全体の視点からすなおに読むなら、このような解釈はむしろ自然であろう。十住心は他ならずこの私の心なのだからである。即身成仏について、空海は「六大無礙にして常に瑜伽なり、四種曼茶各の離れず、三密加持して速疾に顕わる、重重帝網のごとくになるを即身と名づく」と語っている。曼荼羅についても、空海自身が「四曼四印此の心に陳ず」と語っているのである。
空海の思想の難解さは、空海が当時の仏教思想の全体を完全に自家薬籠中のものとし、その並外れた教養の上に独自の思想を展開していることにある。十住心論などはエリクソンやマズローを経てトランスパーソナル心理学として発展してきた最近の人間成長論をはるかに超える次元の豊饒な心理学を展開している。空海の思想から学ぶ点は実に多い。この思想の世界への速やかな紹介が望まれる。
「三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識らず。生れ生れ生れ生れて生の始に暗く、死に死に死に死んで死の終に昏し。」(空海)
「<六大無礙にして常に瑜伽なり、四種曼茶各の離れず、三密加持して速疾に顕わる、重重帝網のごとくになるを即身と名づく。法然に薩般若を具足して、心数心王刹塵に過ぎたり、各の五智無際智を具して、円鏡力の故に実覚智なり。>・・・・是の如き六大の法界体性所成の身は、無障無礙にして、互相に渉入し相応せり。常住不変にして、同じく実際に住す。故に頌に、六大無礙常瑜伽と曰う。解して曰く、無礙とは渉入自在の義なり。常とは不動不壊等の義なり。瑜伽とは翻じて相応と云う。相応渉入は即ち是れ即の義なり。」(空海)
「五大に皆な響有り、十界に言語を具す、六塵に悉く文字あり、法身は是れ実相なり。」(空海)
「九種の住心は自性無し、転深転妙なれども皆な是れ因なり、真言密教は法身の説、秘密金剛は最勝の真なり。五相五智法界体なり、四曼四印此の心に陳ず。刹塵の渤駄は吾が心の仏なり、海滴の金蓮は亦た我が身なり、一一の字門、万像を含み、一一の刀金、皆な神を現ず。万徳の自性は輪円にして足れり、一生の得証は荘厳の仁なり。」(空海)
「六大が無礙なのではなく、四種法身や、智正覚世間の諸尊、衆生世間の諸衆生等のあらゆる身(個体)が無礙なのだと読むべきなのです。この無礙とは、〈渉入自在の義〉です。常とは、〈不動不壊等の義〉であって、このことはもとより変わらないということです。瑜伽とは、〈相応〉の意です。こうして、この即身成仏の即の意味は、〈相応渉入〉だと言っています。つまり、即身とは、この身に即してといった意味ではなく、諸仏・諸尊・諸衆生の各身がもとより相応渉入していることを意味しているのだというのです。簡単に言えば、他者と相即している身であるということです。これはきわめて独特な空海の主張です。」(竹村牧男)
「十住心の内容については、簡単に言えばそれは低い段階から高い段階へと向上する心の様子を描いたものです。しかもそれぞれの段階はさまざまな学派の思想に対応しているとして、儒教・バラモン教・仏教各宗の教理を体系的に組織した形になっているものでもあります。仏教に関しては、顕教について声聞・縁覚・法相宗・三論宗・天台宗・華厳宗の次第となし、そのうえで密教を最高の段階におくのです。その概要をまとめてみますと、次のようです。
第一 異生羝羊心 凡夫の羝羊のような心
第二 愚童持斎心(儒教) 愚かな少年が斎(反省の機会)を持つ心
第三 嬰童無畏心(バラモン教) 赤子が母のもとですっかり畏れ無く安心している心
第四 唯蘊無我心(声聞乗) 五蘊無我という教理をよく了解する心
第五 抜業因種心(縁覚乗) 十二縁起の観察によって、業の因となる種(無明)を抜く心
第六 他縁大乗心(法相宗) 他者を縁ずる大乗の心を起こし、世界は唯だ識のみと理解する心
第七 覚心不生心(三論宗) 心は不生であることを覚する心
第八 如実一道心(天台宗) 真如(如実)の平等無差別の世界(一道)を覚る心
第九 極無自性心(華厳宗) 究極の世界も自性を持たず、現象世界に翻る心
第十 秘密荘厳心(真言宗) 我々には知られない(秘密)が、自己の心に曼荼羅の荘厳があることが自覚される心
・・・・このような次第で、空海は仏教諸宗等の哲学的・宗教的浅深を究明し、かつすべてを密教の中に位置づける一大哲学体系を創造したのでした。」(竹村牧男)
「仏教は、人間と世界の本来の姿を、ひじょうに深く究明していると思います。私たちが有ると思っている変わらない自分や、さまざまな物等々が、すべて常住な本体を有するものではない、しかし仮象のかぎりは有る、と説いています。それだけでも、私たちのふだん日常のごくふつうな思い込みを解体する力があり、同時にその仮象の一々が広大・長遠な時空において、かけがいのないものとして成立している不思議、そしてそこに脈打つ真実のいのちに目覚めさせてくれます。ですから仏教に出会うのと出会わずにいるのとでは、この二度とない人生を歩むうえにおいて、雲泥の差を生み出すことでしょう。」(竹村牧男)
「空海に関する本の多くは、空海の特定の著作の解説であって、それらを横断する空海の思想の全体像とその核心を明らかにしたものは、従来、必ずしも多くなかった。本書では、真言と曼荼羅を軸として、空海のさまざまな著作に一貫する人間観・世界観を、統合的に明らかにしたものである。・・・・それにしても空海の思想・芸術は、いったいどれほど豊饒なのであろうか。・・・・空海の思想の幅の広さと、その内容の深さまた高さは、日本の歴史上に現れた人物の思想の群を抜いていると思われる。」(竹村牧男)
2024/12/23
Comment
空海の思想の核心について、分かり易くご紹介くださり、有り難うございます。
特に三点だけ、こころに響いた、空海ならではの境地から発された言葉
━内宇宙の真理について、記させていただきます。
1.成仏とは、仏に成る意味ではなく、すでに、仏として成就していることである。
これは、ブッダが悟った時に発したという言葉━「不思議だ、不思議だ、一切衆生は、
ことごとく如来の徳相を備え、本質は、仏そのものなのだ。ただ、煩悩あるがゆえに
その仏性が覆われているだけなのだ」━に通じますね。
2.曼荼羅は、自己の心を表しており、全体(曼荼羅の世界)の中に個(自己)
として生かされ、その全体が個である━「重重帝網」のようになっている真理
を意味している。
量子力学によって、我々が目で見て、個に観える存在が、実は仮象であり、
実体は、すべてがつながっている世界の真相が証明されたことを思い出します。
3.私たちが、これが自分だと思い込んでいる自分や物事が、仮象の限りは有り、
その仮象の一つ一つが、広大な時空において、かけがえのないものとして成立
している不思議。そこに脈打つ、真実のいのちに目覚めさせてくれるのが、仏教。
━これは、竹村先生の名言と思います。
私たちのいのちは、見えがかりは儚く、諸行無常で常にすべては変化している。
しかし、その変化する仮象を支えるいのちの本体は、永遠であり、時空を超えて、
「今ここ」にあり、過去と未来、宇宙につながり、永遠に生き成長し続けている。
わたしは、波の一つ。押し上げられ、前に進む波だ。
わたしは、かつて波の波頭を自分だと思い込み、
根を持たず、孤独と不安、虚無に脅えていた。
だが、波は、大きな海に下から支えられ、
持ち上げれ、運ばれていたのだ。
大海という、巨大な力によって━。
波のわたしは、しっかりと海に根を下ろし、
海と一つになって前進するいのちなのだ。
海とつながる、大いなる安らぎ、静けさ━。
たとえ嵐になろうと、波は消えることなく、
生き続ける。一つの波が終われば、
再び、別の波となって生まれ変わる。
それが、わたしたちの生命の真実なのだ。
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