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人は皆、地獄から仏まですべての心を抱く ━ブッダの悟りの真髄と心理学の到達点

Akira Ishibe

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石部 顯 1955年、岡山県津山市生まれ。 子供の頃、自閉症で苦労するが、高松稲荷で祈ったところ、特別支援学級の知的レベルから、10年後に東大に入り心理学を研究することへ導かれた。1980年卒業。 人間の意識が秘める力、自分を超えた大きな力が存在すること、その二つが共鳴することで開かれる、皆が幸せになる道を探究し伝えている。 最新科学と古代の叡智、東洋と西洋の文化を統合し、日本の自然・文化・こころの真価を日本の若い人たち、アメリカ人に伝えてゆきたいと願っている。 その一環として著書『真理大全 真理篇 科学篇 思想篇』を、今秋に刊行予定。
人は皆、地獄から仏まですべての心を抱く ━ブッダの悟りの真髄と心理学の到達点

前回の「省察3」から、時間が経ってしまいましたが、内宇宙・意識の探究について、今回は、大学時代に体験し気づいた真理の一端をご紹介します。「内宇宙への旅」を、ご一緒していただければ幸いです。

■省察4━科学の限界を超えるため、日本人の心理・歴史・文化、自然の研究へと導かれる。フロイトは統合失調症を「了解不能」と結論、西洋の心理学に挫折。どうすれば、心の病を治し、可能性を開花できるのか、独自に真理を探究するしかなかった。

 

ブッダが発見した意識の真理━唯識と如来蔵思想が明かす意識の可能性

1975年、大学に入ると、坐禅部「東京大学陵禅会」があることを知り、さっそく入部した。有り難いことに、臨済宗師家の鈴木宗忠老師に参禅がかない、山中宗睦和尚からは、聖徳太子が初めて使われ、宮中に伝えられた「気」の学問(大気現象学)を教えていただけることになった。また、「東京大学仏教青年会」に入り、斎藤真諦老師(聖徳宗、法隆寺の高僧)のご指導を受け、顧問のインド哲学・中村元先生、早島鏡正先生に直接学ぶことができた。早島先生と、陵禅会顧問の山崎正一先生(哲学・東西比較思想)、末木剛士先生(哲学・論理学、ヴィトゲンシュタインを日本に紹介)には、ご自宅に呼んでいただき会食しながら、自由に質問して、親しくお話を伺えるという、かけがえのない対話の時を頂いた。「シンポジウム」の語源にもなった、プラトンの『饗宴』━美味しい食事と、酒を酌み交わしながら「楽しく議論する自由で創造的な空気」を体験できたことは、以後、対話や議論を通して真理を探究する上で、貴重な手本の一つとなった。

強く願えば、必ず、願いはかなう━というよりは、すでに、先に、人とのつながり、「ご縁」が、網の目のように張り巡らされていて、自分の中に「願い」が明確になってくれば、それに呼応するように「縁」が浮上してきて自然に道が開かれてゆく、と言った方が実感に近い(実は、これは誰にもあてはまる真理・法則であると、後に多くの人々との対話を通して気づかされた)。1970年代後半、東大というアカデミックな場に集結された、東洋と西洋の思想の真髄を掴んだ碩学・先達に学んだ「意識とは何か」━。まず、ブッダの教えについて、お伝えしたい。

仏教の教えの本質、いのち、目的とは、何か━。今からおよそ2500年前、ブッダが悟ったときに発した言葉に、悟りの本質が最もよく表されている。━「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生ことごとく、皆、如来の智慧・徳相を具有す。ただ妄想・執着あるがゆえに証得せず」(不思議だ、実に不思議だ、生きとし生けるもの一切は皆、仏の智慧・徳相を、すでに抱いている。ただ、妄想・執着するために、その真実に気づけず、体得できないだけなのだ)。誰もが本来、仏の慈悲と智慧を平等に抱いている━これがブッダの人間観である。そして、妄想・執着(ベーコンの言葉ではイドラ・謬見)を心から除くならば、内にある仏の慈悲と智慧が、燦然と輝き顕れるのだという。

意識について、仏教は、どのように解明しているのか━。陵禅会の先輩である竹村牧男氏(仏教学。前東洋大学学長)著『入門 哲学としての仏教』より、要約・抜粋したい。以下、ブッダの悟りに基づく、仏教の心理学(唯識)が説く意識の実体である。

唯識では、心を8層に分けて見る。私たちが自覚している、五感(眼耳鼻舌身の五識)と意識(第六識)の奥にある無意識のレベルに、第七識の末那(マナ)識、第八識の阿頼耶(アラヤ)識があるという。末那識には、根本煩悩がはたらき、無明があって我に執着し、我が有るという見解が生じ、その我を守ろうとする。本来、主体である根源的な命を、あえて対象化し固定して、それゆえに縛られてしまう。その末那識よりさらに深いところにある、阿頼耶識とは何か━。阿頼耶(サンスクリットでアーラヤ)とは、蔵の意味で、心の奥に、広大な蔵があると唯識は説く。

 ━「では、いったい、そこには何がしまわれているのだろうか。それは過去一切の経験の情報であるという。見たり聞いたり考えたりしたことのすべてが、きちんとそこに貯蔵されているというのである。フロイトやユングがそういうことを言うずっと前から、仏教は人間をそのように立体的に見ていたのである。それもこの場合の過去とは、この世に生まれてからのみではない。仏教は、生死輪廻を説くから、この過去一切とは、無始以来、生死輪廻してきた間に経験してきたすべてということになる。……

とすれば、ユングの言う集合的無意識に相当するものも、阿頼耶識を説くことによって説明できると推測されよう。人類や民族や地域に共通の意識が、共通の体験を貯蔵している阿頼耶識から、おのずと生まれてくる可能性はじゅうぶんにある」。

では、どうすれば、私たちは救われ、智慧の可能性を開花できるのだろうか。

━「一瞬一瞬経験したことが、その場その場で意識の奥の阿頼耶識の世界に貯蔵されていき、また貯蔵された情報の、特に善・悪の比率が、この世の人生にもなんらか影響を与え、さらに死後、どの世界に生まれるかを決めてゆく。……重要なことは、構造的に、阿頼耶識に貯蔵された悪の要素の堆積を浄化していかないと、仏道は本当の意味では完成しないということである。

それが可能となるのは、じつに第六意識のはたらきによってなのである。……ともあれ、無意識の世界(意識下の世界)は、我々が直接、制御することは当然できないのであるが、しかし意識は自由だから、その心の持ち方次第で、末那識・阿頼耶識によい影響を与えていくことができるし、最終的には浄化しつくして智慧に変えていくことができると説くのである」(後述するが、阿頼耶識が浄化されると、本来もつ仏の慈悲と智慧が発現する)。

竹村氏は、さらに次のように指摘される。━心理学者ユングは、人間の発達を個性化と称し、それは抑圧され無意識となった心を回復し、人間としての全体性を回復してゆく過程のことであり、しかもその心の全体性こそが神だと言っている(心理学者エリクソンも同じようなことを言っている)。そして、意識下の豊かな世界を説くユングの思想に近いのは、心の奥に第八識までしか立てない唯識思想よりも、その奥に、第九識を立てる如来蔵(にょらいぞう)思想であると考えられている。

私たちの心の最深層には、第九識・阿摩羅(アマラ)識<仏性・如来蔵>という仏の心(慈悲と智慧)がある。これは、心理学者ユングが、抑圧された無意識が自覚され、回復された心の全体性こそが神だという、その心に相当する。ちなみに、最近の脳科学では、脳波のδ(デルタ)波<深い眠りの状態のときに出る>が、仏教でいう三昧(ざんまい)、あるいは無心(むしん)━リラックスして深く集中し、しかも覚醒している心の状態の時に出ることが分かっている。心の全体性が回復されてゆくと、脳波の変化<β波→α波→Θ波→δ波>となって現れるのである。

「第九識は、阿摩羅(アマラ)識という。それは自性清浄心とも言われるものであり、仏の心そのものともいえる。……如来蔵思想では、仏の心が凡夫の人間の心の奥にも、じつは存在していることを説くのである。この心の奥底に本来、存在している仏の心を、仏性ともいう。『涅槃経(ねはんぎょう)』にいう「一切衆生、悉有仏性(しつうぶっしょう)」の句は、大乗仏教の人間の見方を代表する一句である。それは、あらゆる人々(本当は生きとし生けるもの)には仏性があるということだ。仏道とは、その仏性をみがきだす道筋だというのだ」

如来蔵思想は、中国と日本に非常に大きな影響を与えた。唯識と如来蔵の人間観は、日本に伝わり、聖徳太子の『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』<法華経(ほけきょう)・維摩経(ゆいまきょう)・勝鬘経(しようまんぎょう)への注釈。勝鬘経は、如来蔵思想の根本経典>から、『天台本覚論(てんだいほんがくろん)』<本来、人は誰も覚(さと)っていると説く>へと発展、「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」「草木国土(そうもくこくど)悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」━人間だけでなく、自然、動植鉱物もすべて仏の智慧(ちえ)と徳相(とくそう)を現す、仏そのものであるとする世界観へと結晶された。法然(ほうねん)が、すべての人間が平等に救われる「悪人正機(あくにんしょうき)」の徹底した救済を説いた背景には、誰の内にも如来の光が蔵されている、との聖徳太子以来の日本仏教の伝統をうけ継いだ、確信があったと言える。

 

誰もが心の奥底に抱いている願い━本当の自分を求め、人を愛してやまない真情

私が19歳のとき、重要な出会いとなったのが、菩薩の願い「四弘誓願(しぐぜいがん)」の第一句、「衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願度(せいがんど)<生きとし生けるものは限りないけれど、一切を救うことを誓い願う>」であった。━透徹した志と永遠を貫く意志に感動し、この一句に、生きる意味、ビジョンを見る思いがした。すべてのいのちを救うためには、一度の人生では不可能であり、何度もこの世に生まれてくる必要がある━情動的にも、論理的にも、心底、確信がいった。

今から顧みれば、幼い頃、「皆が幸せになりますように」と祈った願いは、幼く素朴ながら「衆生無辺誓願度」につながる祈りであり、潜在意識の中心から生まれた真情であると思うようになった。今もその願いは変わらず、人生を貫くいのちの力となっている。

仏教では、意識の本質は、永遠であり、あの世とこの世を生き通し、転生(てんしょう)<最近は、「てんせい」とよく言われる>していると説く。それが、素直に、当然であり、必然に思えた。法然、親鸞は、往相(おうそう)・還相(げんそう)廻向(えこう)━浄土(じょうど<あの世>)に往って仏となり、即、娑婆(この世)に還って自在に衆生を救え、と説く。その教えもまた、自然に納得できる。さらに、世界の思想史を紐解いてみると、輪廻転生は、エジプトの古代思想、インドのヴェーダ、ギリシアのピタゴラス、プラトン、ユダヤ教(カバラ・ゾハール、エッセネ派)、4世紀までの古代・初期キリスト教(グノーシス派を含む)、そして日本の縄文時代の宗教に至るまで、世界各地に広く、深く浸透する思想であることが分かった。

仏教は、修行により、五種の仏の智慧が開くと説く。一切平等の本性を知る宝生(ほうしょう)如来の平等性智(びょうどうしょうち)。あるがままにすべてを鏡の如く映して知る阿閦(あしゅく)如来の大円鏡智(だいえんきょうち)。多様な個性と差違を知る阿弥陀如来の妙観察智(みょうかんさっち)。一切の真願を成就する不空成就(ふくうじょうじゅ)如来の成所作智(じょうしょさっち)。真実一切の本性を顕現する大日如来の法界性智(ほうかいしょうち)。これらすべての智慧が、私たち意識の内に蔵されているというのだ。

その開花は、煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)の道を実践することで可能となる。怒り・恨みは、意識の闇(煩悩)と光(菩提)をあるがままに観て生かす大円鏡智に。欲望・野心は、困難を越えて真の願いを果たす成所作智に。甘え・依存は、人・自然の一切平等を感得する平等性智に。恐怖・逃避は、個性や悲苦を繊細に感じて応じる妙観察智へと転換できる。

さらに止観を体得すれば、六つの神通力(超人的な能力)が開くと説く。天台宗の開祖・天台智顗(てんだいちぎ)は『摩訶止観(まかしかん)』において、止観を修め、早く神通力を得て、縦横無尽に衆生を救いなさい、と求道者を励ましている。六神通とは、次の通りである(『仏教語大辞典』に基づく)。━自由に、欲するところに(距離や障害を超えて)行く能力、神足通(じんそくつう)。自他の未来(来世を含む)を知る能力、天眼通(てんげんつう)。普通の人の聞きえない音(諸仏・諸菩薩等の声・言葉)を聞く能力、天耳通(てんにつう)。他人が考え思っていることを知る能力、他心通(たしんつう)。自他の過去世を知る能力、宿命通(しゅくみょうつう)。煩悩を取り去る能力、漏尽通(ろじんつう)。

止観(精神を統一し、智慧に基づいて観る)により、禅定と智慧を身に着けるなら、必然的に仏智・通力(つうりき)が開かれ、その力をもって自在に衆生を救い、調和ある世界、仏国土を創造することができる。それが大乗仏教の一つの救済のビジョンであった。

さらに、東大仏教青年会で、法隆寺・聖徳宗の斎藤真諦老師に引率され、奈良・京都・吉野にある聖徳太子ゆかりの社寺を巡礼し、『法華経』に基づいて日本の土台が作られた歴史的時空間を体感できたことも、有り難かった。太子が生まれ、自ら勝鬘経を講義された橘寺に泊まり、老師より勝鬘経の講義を受け、法隆寺の講堂で坐禅した体験は、聖徳太子という一人の人間の願いと行動が、千数百年の時を超えて、どれほどの影響を人々に、国に、文化に、精神的にも物質的にも与えうるのか━、意識の可能性の極北を見せていただく思いがした。

その後、西洋の心理学が(心の病を治す目的で始まったこともあり)、意識の抱く可能性については、まったくと言っていいほど無知であり、研究されていない実態を知って、私は驚いた。東大陵禅会と仏教青年会を縁に出会わせていただいた超一流の学者、老師の先達を通して、「西洋が進み、東洋が遅れている」「現代は進化し、古代は未開である」といった単純な思い込みは、まったくのイドラ、誤謬であったことに気づかせていただくことになった。

東大のインド哲学の教授で、浄土教経典の第一人者、早島鏡正先生(東大仏教青年会理事)が、私と友人で始めた自主ゼミ「『ブッダのことば』を読む」に来て下さったことがある。中村元先生の訳による『ブッダのことば』(スッタニパータ)は、ブッダ生前の教えに最も近い言葉が編纂された最古の経典である。私は、その中にある「この世に還(かえ)り来る縁となる煩悩から生ずるものをいささかも持たない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る」との一句について、早島先生に、「ブッダは輪廻転生を前提に、説かれていると思いますが、意識は、永遠で、輪廻転生していると理解してよろしいでしょうか」と問うた。それに対して、先生は、原典のサンスクリット語やパーリ語による語義の説明をされたが、質問に対する本質的な答えについては解答をいただけなかった。学者としてのお立場もあったのだろうと思う。そこで、仏教を通してアカデミックに意識の真相を探究するのは、自分には難しいと感じた。ならば、現代心理学の最先端を研究し、科学的に心の病を治す知識と技術を身に着けた方がよいと考え、最終的に、臨床心理学(教育学部教育心理学科)を専攻することにした。

当時、臨床心理の世界では、東大の佐治守夫先生と京大の河合隼雄先生が双璧をなし、学会を牽引されていた。佐治先生はロジャーズ心理学を、河合先生はユング心理学を広められた。日本で今、心理カウンセリングと言えば、ロジャーズ流を指すほど普及しているが、ロジャーズが仏教(禅)を初めとする東洋思想に深く傾倒し、多大な影響を受け、その思想から心理学の理論と方法を生み出し実践していた事実を重視する研究者は少ない。そして、ユング心理学を普及した河合先生が、ユング心理学だけでは解明できない、日本人に独特の心理があることを自覚され、晩年に至るほどに、日本の自然や文化、歴史がいかに日本人の意識形成に影響を与えているかを研究され、河合心理学とも言うべき領域を切り開かれたことには重要な意味があると思う。河合先生の言葉━「自身も若いときは、ヨーロッパ近代を理想とするような考え方をしていた。それがいろいろと心理療法の経験を重ねているうちに、日本人としての自分の生き方を考えたり、ルーツを探し求めたりすることになった。そして、そこで得たことが単に日本人として意味があるというのではなく、世界全体として人間の心のあり方を考える際に何らかの役に立つものである、と考えるようになった」(『明恵 夢を生きる』)。

河合先生と佐治先生は、親友であり、同志であった。お二人が私たちに教え促して下さっていることは、東洋と西洋の思想、科学と哲学を、それぞれ可能性は伸ばし、足りないところは修正し、補い合って進化・融合してゆくことが、日本が世界に貢献する道ではないか、ということである。東洋と西洋のエッセンスを融合し、開花させてきた歴史を持つ今の日本でこそ、それが可能であり、世界から期待されている使命もまたその点にあると思う。

心理学の研究を初めて、最初に気づいたのは、心理学では、「心とは何か」の定義さえ、明確に決まっていないことである(理論や流派の違いで諸説が乱立)。さらに、統合失調症(分裂病)、解離性同一性障害(多重人格。昔でいう憑依)を含め、重篤な心の病がどうすれば治せるのか、救えるのかを知りたかった私は、大きく分厚い『心理学事典』を紐解き、「分裂病」の項目を調べてみた。当時、心理学・精神医学の主流であったフロイトの見解は、何と、「了解不能」(理解できない、分からない)であった。青天の霹靂だった。「了解不能」の文字が、今でもはっきりと目に浮かぶほど、ショックだった。どうして分裂病(統合失調症)のような症状が起きるのか、理解も、説明もできない、分からない。当然、治療法もない、ということである。またフロイトの弟子であったユングは、精神分裂病患者を研究した博士論文で、結局、「妄想」「幻覚」という言葉で結論づけて終わっていることもショックだった。解離性同一性障害(多重人格)、統合失調症の人たちが、心に抱いているリアリティは、妄想・幻覚といった言葉のレッテル張りで片づけることなどできない切実さがあり、そう名づけたからといって何の意味もないではないかと思った。つまり、西洋の心理学・精神医学では、重篤な心の病は「治せない」のが、当時の実態だったのだ(精神病の治療に、薬を生かして用いることはありうるだろうが、もし、それが薬漬けで終わっているとしたら何の治癒にもなっていない)。その現実に直面して、自分は何のために、この学科に来たのか、……悩んだ挙句、ならば自分で道を見つけるしかない、と思った。

さらに、心理学が病を治す目的で発展してきた(結局、単に社会復帰させることが目的となっていることも問題だが)ために、精神活動の中でも、「想像」「創造」「直観」「共感」「幸福」「覚醒」など、ポジティブな領域については、ほとんど研究されてこなかった実態がある。せいぜい、フロイトが説いた防衛機制の一つである「昇華」として触れられている程度である。それも、昇華とは、社会的に実現不可能(反社会的)な目標、葛藤や満たせない欲求から、より社会に認められる別の目標に目を向け、その実現によって自己実現を図ろうとすることだとされる。例えば、満たされない性的欲求や攻撃欲求を芸術やスポーツ、学問という形で表現することが、昇華だというのだ。これまで、人類が成してきた様々な偉業や、かけがえのない営為が、これで説明し切れるなどとは到底思えない。何とも偏った、部分的で、貧相な意識の理解ではないか━。科学、芸術、宗教、経済等の世界で起きている創造的で建設的な精神活動、意識の可能性、潜在力について研究し、より人間の健康と幸せに貢献するような心理学が必要ではないかと思った。それも、自分で探究するしかない━。

思想・哲学・宗教等ジャンルを一切問わず、病を治せ、可能性を開花できる、納得のゆく普遍的な心理の理論と方法を求め、新たな探究を始めた。時には、宗教者が、解離性同一障害あるいは憑依現象の治癒に臨むところも観察した。当時、東大の教育心理(臨床心理)学科には、脳波測定や脳の解剖など、科学的に意識を研究する最先端の環境が整えられていたので、意識とは何かを科学的に徹底して解明することも行った。これより、1977年から開始し、2024年に至るまで、世界の最先端の科学・心理研究と臨床体験から得た、心の潜在力を開いて健康と幸せに役立つ真理と展望を、探究の成果として共有させていただきたいと思う。

2024/12/23

Tags:内宇宙の旅

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