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人間成長のマトリックス理論

流水

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中川 光弘 香川県に生まれる。 東京大学農学部農業生物学科、農業経済学科卒業。博士(農学)。 農林水産省アメリカ・オセアニア研究室長を経て茨城大学農学部教授。 現在は茨城大学名誉教授、東京日野国際学院副校長。
人間成長のマトリックス理論

70歳を越えたこともあり、どうしても人生を振り返ることが多くなってきた。中学3年生の時に和宗の斎藤眞諦老師について仏教を学び始めたが、老師から最初に言われたことは、「人間は死ぬまでに永遠なものを見つけなければならい」ということだった。

70歳を過ぎた今、はたして永遠なものを見つけることができただろうか。世界には色々な宗教があり、さらにそれぞれの宗教にもいくつもの宗派があるが、宗教の核心は生きること、存在することへの安心感の獲得、納得だと思う。

 

エリクソンという心理学者は、人間の一生のステージを8つに区分して、人間の成長過程を説明している。次のような区分である。

 

①乳児期(1才未満):信頼⇔不信(発達課題と危機)

②幼児期初期(1~3才):自立性⇔恥と疑惑

③幼児期後期(3~6才):積極性⇔罪悪感

④学童期(6~13才):勤勉性⇔劣等感

⑤青年期(13~22才):自我同一性⇔役割の混乱

⑥成人期(22~40才):親密性⇔孤立

⑦壮年期(40~65才):世代性⇔停滞

⑧老年期(65才以上):統合性⇔絶望

 

発達課題とは、「人間が健全で幸福な発達を遂げるために各発達段階で達成しておかなければならない課題」であり、これが達成されない場合には心理的危機が訪れるとされている。私はすでに人生の最終ステージの老年期に入っているので、発達課題は「統合性」である。これまで生きてきたこと、ポジティブな体験もネガティブな体験も、すべて統合化して納得できているだろうか。

 

吉福伸逸というセラピストは、人間が健康で幸福な発達を遂げていくためには5つの成長の基盤があることを指摘した。彼はこの基盤を「マトリックス」と呼んだ。マトリックスの原意は「母胎」、「子宮」である。生命が育っていくための基盤である。5つのマトリックスとは、①母親の子宮、②母親、③社会、④思想・哲学・宗教、⑤自然、であるという。

 

まず我々の生命は、両親からの卵子と精子の受精から始まる。この受精卵を10カ月近く育むものは「母親の子宮」である。第一のマトリックス(基盤)が「子宮」であることに異論はないであろう。これが健全に機能しないと、最初の試練が訪れる。例えば妊娠期間中に母親が風疹に罹ってしまい、先天性風疹症候群の新生児が生れることがあるが、これなどは人間成長の最初のマトリックスの重要性を示している。最近の研究では、懐妊期間中に母親が過度のダイエットを行った場合、新生児の脂肪細胞の数が多くなり、この子供の生涯を通じて肥満症のリスクが高まることが知られている。

 

次の第二の人間成長のマトリックスは「母親」である。これは新生児にとって、自分に無償の愛を注いでくれ、授乳や排泄などの世話をしてくれるのが母親であり、また最初の他者となり、愛着対象となるのも母親であるからである。「施設病」として知られている愛情剥奪を経験した子供の多くが成長するにつれて心理的不適応を起こす事例は、このことをよく実証している。乳幼児期の愛情剥奪の問題とともに、母親からの分離独立に失敗した子供たちの多くも心理的不適応を起こす。第二のマトリックスは、ネグレクトでもなく、過干渉でもない、「愛情深く落ち着いたほどよい母親」を理想としている。

 

児童期になると子供は「社会」を基盤として成長を遂げていく。子供の生活世界は、家族から近所の遊び仲間、さらに学校の友達、地域の人々へとその関わりを広げていく。人間成長の第三のマトリックスは、「社会」となる。

 

この「社会」の中には地域共同体も含まれている。戦後、全国的に地域共同体が崩壊していく中で、これまで地域共同体が子供たちを育ててきた機能が喪失してきた。社会への適応性に乏しいパーソナリティ障害の子供たちが増えてきたことから、地域共同体の持っていた教育機能が見直されるようになってきた。

 

一人前の社会人に成長した若者にとって、次の人間成長の基盤は「思想・哲学・宗教」となる。知性を持つ我々人間は、「思想・哲学・宗教」を第四のマトリックスとして、自己の精神世界を拡大させ、自分の世界観を確立し、自己を統合化していく。生きることの意味を、先人たちの思想を栞にして自ら見出していかなければならない。40代後半から男性に好発する、いわゆる「中年の危機」は、このことに失敗した事例として知られている。長い人生において困難なことや不条理なことに直面した時、それを乗り越える気づきが生れる基盤は、この「思想・哲学・宗教」のマトリックスであろう。これが貧弱だと、神経症のようにイラッショナル・ビリーフ(偏った思い込み)に陥った時になかなかそこから抜け出せないことをよく見かける。

 

人生の晩年期に入ると、老いと病いと死をどう受容するかが発達課題となる。自己超越に向けての成長が課題となるといっていいであろう。高齢者鬱の病いなどは、このことに深く関わっていると思われる。この段階でのマトリックスが「自然」だろうと吉福は指摘している。人間はどう頑張ってみても自然の一部にすぎない。「則天去私」の境地が、人間成長の最終相となるようである。

 

吉福の「マトリックス理論」は、これまでの生涯発達心理学の諸学説を集約したような理論であり、人間成長を俯瞰する際に参考になる明快な理論である。私はこの「マトリックス理論」を吉福氏本人から直接聞く機会に恵まれた。吉福伸逸は2013年にハワイで亡くなっている。彼の最後の言葉は、「いよいよ地球というマトリックスを離れる時が来たようだ」だったと伝えられている。吉福の著作を調べてみたのだが、「マトリックス理論」について体系的に書かれたものを見つけることはできなかった。ここにその概要を記した次第である。

 

吉福の「マトリックス理論」を聞いた時、第四のマトリックスに「思想・哲学・宗教」を、第五のマトリックスに「自然」が挙げられていたことが素晴らしいと思った。戦後の日本の公教育は、徹底して宗教を排除してきた。しかし、宗教性やスピリチュアリティ(霊性)に触れることなく、健全な人間成長が達成できるのか、はなはだ疑問である。

 

NATURE JAPANのプロジェクトは、第四マトリックスの「思想・哲学・宗教」と第五マトリックスの「自然」に深く関わっている。このプロジェクトが「永遠なるものの探求」と「悲しみの共同体」(吉福伸逸の言葉)のネットワーク化の一つの契機となることを期待している。

 

2025/1/27

Tags:内宇宙の旅

Comment

  • 石部 顯:
    2025年1月31日

    吉福さんのマトリックス理論、歳をとるごとに成長する直線的進化の実態も、確かにそうであろと納得するところがありました。有り難うございます。

    ただ、「自然」に関しては、別次元の扱いが必要ではないかとも感じました。発達心理学、学習心理学、臨床心理学の観点から言いますと、幼児期(7歳くらいまで)は、「徹底して自由に自然の中で思いっきり遊ばせること」さらに、できれば少年少女期(小学中学生)も「自然をベースに学習する」ことが、身体・五感、顕在・潜在意識の可能性(感覚・感情・思考・意志、問題可決能力、創造力等)が育まれ、それ以降の人間的成長に決定的な土台となるように思われます。

    それがまた、老年に至って、自然に帰り、より深く自然の恩恵に感謝し、回帰するようになるのが、昔の日本人の自然な成長でもあったように感じます。その意味で、自然は、人間にとり、母親の胎内から、誕生、成長、学び、鍛錬、老いて最期を迎え、あの世に旅立つ、すべてのプロセスを支え抱き育んでくれている存在のように感じられますが、いかがでしょうか。

    2024年フィンランドの研究所が、世界108か国、50万人を対象に、独自のIQテスト(従来のIQテストでは、測定できなかった創造性、解決力なども尺度に入れたもの)で、知能を測定したところ、第一位が、日本人だったということです。

    その理由として、文化的背景が注目され、1.農耕(稲作)文化(水の緻密な利用、気候への対応等々)、2.日本語(漢字・ひらがな・カタカナの使用が、脳の全体をトータルに発達させている。漢字は右脳、ひらがなは左脳、カタカナは脳全体を活性化する)、3.心構え(他者への思い遣り、協力→空間的知能や共感的知能を伸ばす)が挙げられ、研究されているそうです。面白いですね。

    日本の自然と日本人、文化、歴史との関係をさらに深く探究し、世界史の中における日本の役割について、より明確にして「共鳴」してゆけたらと思っています。有り難うございました。

  • 流水:
    2025年2月2日

    石部 先生
      きちんと読んで頂き恐縮です。エリクソンやマズローの成長論のイメージが強くて、確かに「歳をとるごとに成長する直線的進化」のイメージでまとめすぎたかもしれません。気づきませんでした。
     「自然をベースに学習すること」については第3マトリックス「社会」の中の地域共同体の教育機能の中に含めたつもりでした。 
     「自然は、人間にとり、母親の胎内から、誕生、成長、学び、鍛錬、老いて最後を迎え、あの世に旅立つ、すべてのプロセスを支え抱き育んでくれている存在のように感じられます」のご指摘は、その通りだと思います。このことは吉福さんの最後の言葉の「いよいよ地球というマトリックスを離れる時がきたようだ」によくあらわれていると思います。
     マトリックス理論は、クライアントの心理的不適応の原因を理解するために吉福さんがまとめられた理論です。初めてこの理論を聞いた時、第4マトリックスの「思想・哲学・宗教」のさらに先に第5マトリックスの「自然」が挙げられていたことに凄いなと思いました。貴重なコメント本当に有難うございました。
     

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