縁友往来Message from Soulmates
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スキーの楽しさ

高校生の時、四国の霊峰剣山で雪が舞う中、師匠の斎藤眞諦老師とスキーの話をしたことがある。その時老師に、君は将来スキーを始めたら、すぐにスキー用具一式をそろえてスキーに熱中するだろう、と予言めいたことを言われた。スキー場が一つも無い四国での話だったので、当時は特に気にも留めなかった。
その後上京してスキー場には近くなったのだが、スキーとの縁はなかった。それが30代になって東京電力に勤務していた友人の秋元政俊君に誘われて長野県の白馬八方尾根スキー場に出かけることになった。お茶の水で格安セール中のスキー用具一式を買いそろえて、彼の車に便乗して出かけた。
現地に着くと早速ゴンドラに乗せられて、一挙に黒菱の頂上まで連れて行かれた。そこでスキー靴の着脱の仕方、止まり方、曲がり方を一通り教えてもらい、当然のことながらまごついている私を残して、彼は颯爽と雪をけって麓まで降りて行ってしまった。焦ったのは私で、結局ほとんど転がりながら麓まで何とか下山した。これが、中年になってからの私のスキー・デビューだった。
いきなり散々な目にあったのだが、不思議にそれでもスキーが嫌いになることはなかった。麓で緩やかな斜面を見つけて、リフトも使わずにスキーを担いで登っては滑り、また登っては滑りを繰り返していると、何とか八の字型で滑れるようになっていった。温泉宿に泊まったのだが、あんなにお腹がペコペコにすいて気が付いたら夢中で夕飯をかき込んでいた体験は初めてだった。
秋元君とはその後も時々スキーに出かけた。佐久市にお父さんの別荘があり、冬はそこを拠点にスキーを楽しんだ。新潟県の妙高スキー場や山形県の蔵王スキー場にも出かけたりした。スキーと温泉と美味しい食事は、私にとっては一番の贅沢でリフレッシュだった。
工学部出身の秋元君は何事も徹底してやる人で、スキー・スクールに通い、バッジ・テストにも挑戦して、どんどん技能を上達させ、アイスバーンのコブが多い上級者コースも優雅に滑っていた。私の方は、スキーが楽しめればそれで満足で、スキー・スクールも受講しなかった。そのため自己流の変な癖がついてしまい、何十年やっても上級者コースが滑れないままである。何事も最初の基礎が大事だと今になって反省している。
冒険家の三浦雄一郎氏は、スキーはシニアのスポーツだと語っているが、確かにそうだと思う。既に70歳を越えたが、スキーは今も続けている。土浦市の自宅を7時頃に出かけると12時前には栃木県の塩原温泉奥のエーデルワイス・スキー場に着く。シニアの半日リフト券を買って4時間ぐらいスキーを楽しんで帰宅している。技能を上げようという欲はもうないので、初心者コースをマイペースで滑っている。
初めてスキーに出会った時、こんなにスピーディでスリルがあり、一山を数分で一挙に滑り降りるスケールの大きなスポーツがあることに感動した。中年で始めたことには、のめり込む人が多いと言われるが、私のスキーもその典型だった。
ディープ・エコロジーを提唱したノルウェイの哲学者のアルネ・ネスは、吹雪の中でスキーをしていた時、自然と自分が一つになったような一種の神秘体験をしたことを語っている。彼のディープ・エコロジー論には、論理だけで読んでいくと、最後にその論理がトランセンド(超越)するところがある。これは自然と自分が一体となった彼の神秘体験が影響してのことではないかと思う。
雪については禅にも、「好雪片片、不落別処」(こうせつへんへん、べっしょにおちず)という公案がある。ああ美しい雪だ、ひとひらひとひら別の処には落ちない、という意味の公案で、?居士の言葉である。唐の時代、石頭禅師に参じた?居士は、雪が舞う中門まで見送りにきた雲水にこの言葉を贈ったと伝えられている。
「別処に落ちず」とは、雪もこの私も別の処には落ちない、の意味であろう。では、同じ処に落ちているのかといえば、そうでもなさそうである。不可分・不可同で、個性は残したまま落ちるべき処にそれぞれ落ちている。個は保ちながら、お互い妨げ合うことなく、空性の地平に落ちている一如の世界を見るらしい。
最近になって、「君はスキーに熱中するだろう」との師匠の予言は、心身全体で大雪山と交流し、「別処に落ちず」を体得しなさい、というアドバイスだっのではないかと思うようになった。この公案を師家の室内での商量で終わらせてはいけない、大自然との交流の中で体得しなさい、との眞諦老師の指導だったのではないかと思う。
白銀のゲレンデと雲一つない青空とのコントラストからなる風景は、我々が五感で経験する最も清浄な世界である。隔週ZOOMで開催されている日本瞑想セッションで、インドやネパールのアッチャラヤ(阿闍梨)の先生方がよく言及される身体、心、感情の奥に存在するエンプティ・スペース(本来の自己)を一番想起させる風景である。スキーの魅力の背景には、実はこのことがあるのかもしれない。
スキーヤーにとって、3月はメランコリーな時節である。3月末にスキー場が閉まると、次のシーズンまでスキーを楽しむことはできない。今シーズン最後のリフトからゲレンデを見下ろしていると、楽しかったことが次々と思い出され、いよいよお別れだとの感情がこみあげてくる。人生の最後もおそらくこのようなメランコリーな気分を味あうのだろう思う。よく遊ばせてもらったことへの感謝とともに、名残惜しくはあるが、この娑婆との縁が尽きれば去っていかねばならない哀愁を味あうのだろう。遊び慣れたスキー場のリフトのように、一回廻ってまた此処に戻ってこれるのなら嬉しいのだが・・・。
2025/4/25
Comment
エッセイを拝読し、大自然の中で初めて体得できる何かがあるお話、感動しました。私も、中高と陸上競技部に属し、道もない野山をかけ回ることが好きでした。その時、自分より大きなもの、大地、空、山があることを実感し、脳天を突き抜けるような喜びと感激がこみあげた経験があります。
どれだけ暴れまわっても、ビクともしない大地に支えられている安定感━。私も自然に入り対話して体得する道を歩む原点を思い出し、再認識させていただくことができました。有り難うございます。
〇「君はスキーに熱中するだろう」との師匠の予言は、心身全体で大雪山と交流し、「別処に落ちず」を体得しなさい、というアドバイスだったのではないかと思うようになった。この公案を師家の室内での商量で終わらせてはいけない、大自然との交流の中で体得しなさい、との眞諦老師の指導だったのではないかと思う。
「余白の美」を愛でる日本人━積雪は、「余白」が持つ無尽の深さを思わせる。確かに「因果律」はあるが、単純で直線的な因果に落ちない。自由に遊ぶ世界があることも知っている。余白に無限の豊かさを感じ、畏敬するこころに、世界に貢献する日本人の美的センス、生き方のユニークさがあるのでしょう。
「余白の中から、新しいアイデアが生まれる」━最先端ロケット、ロボット、PC、携帯、精密機器に不可欠の製品を新たに生み出し続ける日本人の「沈黙のイノベーション」。曖昧にしておくことで、いろんな発想を取り込み、最終的に完璧を目指す━「曖昧さ(空・余白・カオス)」×「現場力(和・チームの智慧と力)」×「完璧志向(色・究極の形・結果重視、シンプルの美を追求)」が、日本のイノベーションの特徴だそうです。
ひとひらの雪は、どこに落ちるか、舞っているときは分からない。その曖昧さ、余白の時空に、無限の可能性があると同時に、過たず、落ちるべきところに落ちてゆく━。目指すべき、最終理想形(青写真)に至る道は、人それぞれ。人生という荒波、大自然との交流の中でこそ、真の体得がある━中川先生の人生が、まさに「別處に落ちず」であること、半世紀にわたって「体得」の余光を浴びてきた私は、「沈黙のうちに証明されている」と思います。師の慧眼、「不落別處」を、予知されていた凄味と温かさを思います。
〇白銀のゲレンデと雲一つない青空とのコントラストからなる風景は、我々が五感で経験する最も清浄な世界である。隔週ZOOMで開催されている日本瞑想セッションで、インドやネパールのアッチャラヤ(阿闍梨)の先生方がよく言及される身体、心、感情の奥に存在するエンプティ・スペース(本来の自己)を一番想起させる風景である。スキーの魅力の背景には、実はこのことがあるのかもしれない。
禅僧・白隠の言葉、「冬、夜坐す。雪を聴いて得所あり」━雪の降る夜、坐禅し、雪のひびきを聞いて、悟るところがあった。静寂の中に響く、雪の音、その響きは、宇宙を満たす━今も心を開けば、聴くことができるのでしょう。
白く降り積もる雪の大地、穢れなき純白の新世界、空(くう)より生まれ、宇宙にただ一つの雪片、舞い降りて出会うことが約束されている大地の下に眠る花もまた空(くう)━。雪の花は、地に落ちて死なず、水となり大地に入って眠る花の種子を潤して育む━。思い出される歌の詞を、感謝を込めてお贈りします。
すさぶ大地の下で 花は眠っている
広い空の上では 手紙がつづられる
透き通る便箋は 六つの花びらの花
六花の雪よ 降り積もれよ
白く 白く ただ降り積もれよ
すべを包んで 降り積もれよ
━中島みゆき『六花』より
流水さんが、毎年スキーを楽しまれているとは知りませんでした。この投稿を読ませていただいて、私はなぜか父親のことを想いました。
私の父は北海道の小樽で生まれ育ち、学生時代はスキージャンプの選手で、戦時中はスキー部隊の隊長をしていたと聞かされています。
復員して間もなく結核に罹り、私が物心つく前に他界したため、私は父親のことを、写真と周囲の人の話でしか知りませんが、これからという時に、愛する妻と幼な子を残して旅立たなければならなかった父の「無念」は、いかばかりのものがあったでしょう。
もし生きていれば、父は白銀の世界で自然とひとつになれるスキーの素晴らしさを、教えてくれたにちがいないと思います。しかし、母親が再婚して東京に出てくることになったため、私はスキーとはあまり縁のない人生を送ることになりました。
東京での私の人生は、この世の闇の世界へまっしぐらに滑り降りていくような、スリルとサスペンスに満ちたものでした。そして、闇の深さに絶望して、あの世に帰りたいと思うことも何度かありました。
そんな時「この世の命を大切にして、自分の分まで生きてほしい」という父の強い想いが、時空を超えて私を包んで守ってくれたように思います。
父が亡くなったのは33歳。「草葉の陰からいつも見守っているから」母が伝えてくれた父のこの末期の言葉は、この世で一緒に過ごす以上の強い絆をつくり出してくれました。
私は今77歳、おかげさまでこの年まで生きながらえて、「この世」でしかできない貴重な体験をさせていただいています。「あの世」に還ったら、父に会って、ぜひ直接感謝を伝えたい、そして、もし許されるなら、もう一度一緒に生まれて、スキーを教えてもらいたい、流水さんのエッセイを読んでいるうちに、そんな想いが湧き上がってきました。
石部さん、Ishikawaさん、心のこもった暖かいコメント有難うございました。今回このエッセイを書いてみて、どうして自分はスキーを続けてきたのか、少し分かったような気がしました。
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