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大乗仏教の核心「初めに大悲ありき」の解明

流水

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中川 光弘 香川県に生まれる。 東京大学農学部農業生物学科、農業経済学科卒業。博士(農学)。 農林水産省アメリカ・オセアニア研究室長を経て茨城大学農学部教授。 現在は茨城大学名誉教授、東京日野国際学院副校長。
大乗仏教の核心「初めに大悲ありき」の解明

書評『はじめての大乗仏教』竹村牧男著   

日本は七世紀初頭に聖徳太子が「十七条憲法」を作成して「篤く三法を敬え、三法とは仏法僧なり」と宣言して以来、仏教国として発展を遂げてきた。太子の『三経義疏』を読んでみると、「十位以上の大乗菩薩が住む仏国土の建設」が何度も熱く語られている。『三経義疏』で太子が採り上げた三つの経典は、『法華経』、『勝鬘経』、『維摩経』で、いずれも代表的な大乗仏教経典であり、ここに在家主義を中心する大乗仏教国としての発展の方向性が定められたと言っていいであろう。

大乗仏教は我が国の文化、国家体制、日本人の精神性の発展に大きな影響を与えてきた。しかし、「大乗仏教とは何か」と改めて尋ねられると、この問いに簡潔的確に答えられる人は少ないのではないだろうか。日本人としての教養として大乗仏教を改めて学ぼうと考えている人は少なくないであろう。竹村牧男著『はじめての大乗仏教入門』は、改めて大乗仏教を学ぼうとする人にとって最良なテキストである。

本書は、著者も述べているように大乗仏教概論、大乗仏教入門書としての性格を持っている。しかし、その内容は大乗仏教の中核思想については決して水準を落とさずに詳述されており、大乗仏教の全容が広く深く理解されるように編集されている。「縁起」については華厳哲学の重重無尽の縁起説を中心に、「人間の迷いの構造」については唯識論の三性説を中心にかなり詳細な解説がなされており、仏教の深い理解に至ることができる。大乗仏教のほぼ全分野にわたって長年研究を続けてきた老仏教学者にしか書くことができない簡潔明快な内容である。これまで断片的に習ってきた知識が、本書を通読することにより全てが有機的に繋がり、自分なりに大乗仏教の全容が見えてくる。大乗仏教の全容が見えてくることにより、人生の意味や生きそして死ぬことの安心が得られ、本書から大きな力をもらうことになるであろう。

著者は大乗仏教の中核思想として、まず「縁起」の思想を解説している。「縁起」とは、あらゆる事象はそれ単独で存在していのではなく、さまざまな要因が関連し合ってその事象を成立させているとする見方である。「我々は、まず自分がいて、それが種々の関係に入るのではなく、もとより関係する世界があって、そのなかに一人ひとりが生かされている」実相が解明されている。

縁起の世界は空性の世界である。「縁起ということは、他を待って初めて有りうるということですから、それ自身の本体を持たないということになります。常住不変の実体的な本体は無いということです。ある現象にその本体が無いという、このことが空ということにほかなりません」と解説されている。

「人間の迷いの構造」については、我執と法執が迷いを生み出しており、感覚世界を言語で実体的に捉えることによる誤認識が主な原因であることが解明されている。「仏教を学べば、ものがあるといった、ごくふつうの常識的な了解がいかに虚妄な思い込みにすぎないかを知らされます。その虚妄な認識の下に横たわる事実の世界は、空・無自性にして縁起のなかに成立している現象世界と、その本性としての不変なる世界(空性=法性=真如)とが一体となった、なかなか深みのある世界であることが、仏教においては〈三性説〉というかたちで分析・洞察されていたのでした」と解説されている。

本書を読んで、私にとっての一番の気づきは、如来蔵思想とは、衆生が如来の胎児を持っていることだけでなく、「衆生はそのことに気づき得ず、自分で自分を開くことができないでいる存在であること、如来こそが衆生にはたらきかけてその衆生を仏にならしめることを訴える思想」であることであった。日蓮宗の檀家に生れたので、これまで『法華経』には親しんできたのだが、如来蔵思想の半分の理解が欠落していたことに気づかせてもらった。毎日の読経で日蓮宗ではどうして「欲令衆」を独立させて読むのか、初めて納得できた。

「大乗仏教の自力聖道門に属すると考えられる『華厳経』や『法華経』の主題も、じつはこのことにあったのです。すなわち、大乗仏教は根本的に、他力の法門なのです。この主題の核心を汲みだし、純粋に語るものが、『無量寿経』などの浄土三部経ということになるでしょう」との大乗仏教史の概説により、どうして法蔵菩薩の第十八願で救われるのか、初めて納得できたように思う。大乗仏教の核心は、「初めに大悲ありき」であることを、本書は明快に解明している。大乗仏教とは何なのか、改めて大乗仏教を振り返ってみたい人に、本書の一読をお薦めしたい。


 

「本書は、全体として、大乗仏教概論のようなものであり、大乗仏教の世界観(法相)と実践論(修道論)の全体にわたって、基礎的な知識が得られるものと思っています。・・・重要な事項についてはけっこう詳しく説明しておきましたので、仏教という宗教の世界についてかなり深く理解することができるものと思います。」(竹村牧男)

「宗教とは、人間生活の究極的な意味をあきらかにし、人間の問題の究極的な解決にかかわりをもつと、人々によって信じられているいとなみを中心とした文化現象である。」(岸本英夫)

「仏教に於いては、すべての人間の根本は迷にあると考えられていると思う。迷は罪悪の根源である。しかし迷ということは、我々が対象化せられた自己を自己と考えるから起こるのである。迷の根源は、自己の対象論理的見方に由るのである。」(西田幾多郎)

「自己を対象的に捉え、それに引きずりまわされることに、我々の根本的な問題があるのであり、この立場を透脱して、主体としての自己そのものに生きることを実現することこそが、いわば悟りということになるでしょう。」(竹村牧男)

「このように世界の実相を分析することによって、常住の我も無く、実体的なものも無いことがより明らかになります。そのことをよく理解して、我執も法執も断じていって、最終的に涅槃と菩提を実現しようとするのです。」(竹村牧男)

「業の思想とは、行為には未来に影響をあたえる力があると見るもので、しかもその影響力はこの世のうちにとどまるだけでなく、むしろ来世までにも及ぶと考えられています。・・・この業の思想は、仏教も取り入れています。我(アートマン)の思想は否定したのですが、業(カルマ)の思想、言い換えれば生死輪廻の思想は採用しているのです。」(竹村牧男)

「事事無礙法界では、あらゆる事象同士の重重無尽の縁起の世界を示します。すなわち、一つの事象は、他のあらゆる事象に入り込んでおり、一切の事象は一つの事象に入り込んでいる(一入一切・一切入一)、また一つの事象は他のあらゆる事象と一つであり、一切の事象はある一つの事象と一つである(一即一切・一切即一)と説きます。そこに華厳宗で説く事事無礙法界(すべての事象が他のあらゆる事象と妨げあうことなく相即し相入しあっているような世界)があります。」(竹村牧男)

「仏とは菩提(四智)と涅槃(無住処涅槃)を実現した方で、その根本は智慧そのものと言えましょう。この智慧は、未来際を尽くして相続されていきますが、そのことは、くりかえし申しますが、利他の活動に永遠に励んで止まないということです。
一方、我々の側から言えば、そういう存在に何らかの仕方で出会い、感銘を受け、その大悲のはたらきによって救われようと思い、ひいては自分もそういう他者を自在に救済する仏のような存在にもなろうと思って、菩提心を発し、我執(煩悩障)と法執(所知障)を断ずる修行に取り組んでいくのが、大乗仏教というものの世界なのです。」(竹村牧男)

「自己がどうにも救われないことを徹底して自覚した時(機の深信)、阿弥陀仏の救いの呼び声が聞かれてきます(法の深信)。この関係は、〈逆対応〉(西田幾多郎)と言うべきものです。そこに自己と自己を超えるものとの関係の自覚があり、その本願に任せる心が起きてきます。それは、一種の発菩提心と見てよいのではないでしょうか。」(竹村牧男)

「修行とは、我執=煩悩障と、法執=所知障を対治し、離れていく道といえます。」(竹村牧男)

「如来蔵思想とは、衆生が如来の胎児を持っていることだけでなく、衆生はそのことに気づき得ず、自分で自分を開くことができないでいる存在であること、如来こそが衆生にはたらきかけてその衆生を仏にならしめることを訴える思想なのです。」(竹村牧男)

「『華厳経』〈性起品〉、『如来蔵経』、『法華経』〈譬喩品〉、〈信解品〉などにおいては、一貫して、衆生は如来の智慧を有していること、しかし衆生は自分で自分を開発し、仏と成ることはできないこと、仏の側で衆生にはたらきかけ、衆生を導き、仏に成らしめることが説かれていることを見ることができます。大乗仏教の自力聖道門に属すると考えられる『華厳経』や『法華経』の主題も、じつはこのことにあったのです。すなわち、大乗仏教は根本的に、他力の法門なのです。その主題の核心を汲みだし、純粋に語るものが、『無量寿経』などの浄土三部経ということになるでしょう。」(竹村牧男)

「矛盾的自己同一的に、かく自己が自己の根源に徹することが、宗教的入信である、廻心である。しかしそれは対象論理的に考えられた対象的自己の立場からは不可能であって、絶対者そのものの自己限定として神の力と言わざるを得ない。信仰は恩寵である。我々の自己の根源に、かかる神の呼声があるのである。」(西田幾多郎)

「只この身の所有と考えられるあらゆるものを、捨てようとも、留保しようとも思わず、自然法爾にして大悲の光被を受けるのである。シナの仏教は因果を出で得ず、印度の仏教は但空の淵に沈んだ。日本的霊性のみが、因果を破壊せず、現世の存在を滅絶せずに、しかも弥陀の光をして一切をそのままに包被せしめたのである。これは日本的霊性にして初めて可能であった。」(鈴木大拙)

「自己のありかと意味とを了解できたとき、その即今・此処・自己において、宗教の根本的な問題は解決され、生死輪廻があろうとなかろうと、大いなる安心にひたるとともに、〈ひとかたはたらず〉の思いのうちに、かつ自未得度先度他の活動に、具体的には、十善戒・六波羅蜜・四無量心のような生き方の目安のもとに、その人なりに励むことになるのだと思われるのです。そんなふうに、私は思っています。」(竹村牧男)

2025/5/26

Tags:内宇宙の旅

Comment

  • 石部 顯:
    2025年5月27日

    書評・エッセイを拝読し、「自己とは何か」を探究した哲学者・西田幾多郎が、「自己の根源に、神の呼声がある」と言っていたのには驚きました。そして、次の言葉を思い出しました。

    「無意識は、たくさんの重荷、過去、埃に覆われている鏡だ。その重荷が落ちて、鏡が再び見つかった時、それが幸福だ。その時、鏡はもう一度、樹々、太陽、砂、星を映し出すことができる」

    以下、エッセイ中の言葉から、考えさせられたことを記します。

    「縁起」とは、あらゆる事象はそれ単独で存在していのではなく、さまざまな要因が関連し合ってその事象を成立させているとする見方である。「我々は、まず自分がいて、それが種々の関係に入るのではなく、もとより関係する世界があって、そのなかに一人ひとりが生かされている」。

    「縁起ということは、他を待って初めて有りうるということですから、それ自身の本体を持たないということになります。常住不変の実体的な本体は無いということです。ある現象にその本体が無いという、このことが空ということにほかなりません」。

    意識が、自分を対象化して、その自分にこだわり苦しむのが、私たちの迷い。「縁起」は、「もとより関係する世界」が、まず初めにあって、「その中に一人ひとりが生かされている」とみる。それにより、私たち現代人が、存在の根を失って孤独と不安を抱いて漂流する苦しみの原因が、浮き彫りになってくる。

    自分が固定し独立して在る、という「誤った信念」を抱いて、自ら苦しみを生んでいる自我の実態に対する無知・無明の悲しみ━。「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったデカルトは、「われ」の根源に、神を見ていたが、後世の人間たちは、「神は死んだ」として、「われ」を世界の中心に置き、神のごとく祭り上げた。唯物主義、拝金主義、科学主義、暴走の始まりである。

    「迷ということは、我々が対象化せられた自己を自己と考えるから起こるのである」(西田)
    「自己を対象的に捉え、それに引きずりまわされることに、我々の根本的な問題があるのであり、……主体としての自己そのものに生きることを実現することこそが、いわば悟り」(竹村)
    「業の思想とは、行為には未来に影響をあたえる力があると見るもので、しかもその影響力はこの世のうちにとどまるだけでなく、むしろ来世までにも及ぶと考えられています。・・・この業の思想は、仏教も取り入れています。我(アートマン)の思想は否定したのですが、業(カルマ)の思想、言い換えれば生死輪廻の思想は採用しているのです」(竹村)

    意識が、これが自分だと、対象化した自分を持つことが、迷いだという。
    命も、自分のものだと思っている。肉体生命さえ、自分のものではなく、一時的に神・仏から与えられた命であり、生も死も、自分の裁量にはあらず、神・仏の意思による。ただ、肉体は時を経て滅ぶが、自分(自我)という対象化された自分を作った意識の本体それ自体は、永遠の生命として転生し、螺旋的進化を続けることになる。

    それが、生死輪廻であり、比較思想史によれば、それは仏教のみならず、初期キリスト教(4世紀まで)、ユダヤ教など、世界中の思想にあることは明らかだ。しかし、それがあまり知られていないのは、科学信仰、唯物主義の「死んだら終わり」が全盛期にあるとき、排除・抑圧・無視されたからである。昨今、若い世代にとって、「転生(てんせい)」は、急速に受け入れられる見方になってきている。真理は、隠し通せず、必ず、現れる━。

    「世界の実相を分析することによって、常住の我も無く、実体的なものも無いことがより明らかになります。そのことをよく理解して、我執(自分への執着)も法執(存在への執着)も断じていって、最終的に涅槃と菩提を実現しようとするのです。」(竹村)
    「一つの事象は、他のあらゆる事象に入り込んでおり、一切の事象は一つの事象に入り込んでいる、また一つの事象は他のあらゆる事象と一つであり、一切の事象はある一つの事象と一つであると説きます。そこに華厳宗で説く事事無礙法界(すべての事象が他のあらゆる事象と妨げあうことなく相即し相入しあっているような世界)があります」(竹村)

    私たちは、一人ではない。不思議な「ご縁」に連なっている。私のつたない文章を、ここまで読んでくださるのも、ご縁がなければ起きないことである。したがって、愛する人、親しい友との別れもまた、つながりが、縁が切れ、途切れるわけではない。生き別れて、この世での空間を異にし、死に別れて、あの世との次元の違いはあれども、「縁起」は続いており、縁起の中につながり生き、いつまでも生かされているのである。ここに、人間であれば誰もが抱かざるを得ない根源的な孤独と悲しみに対する癒しと救いがある。

    「自己がどうにも救われないことを徹底して自覚した時(機の深信)、阿弥陀仏の救いの呼び声が聞かれてきます(法の深信)。……そこに自己と自己を超えるものとの関係の自覚があり、その本願に任せる心が起きてきます」(竹村)
    「如来蔵思想とは、衆生が如来の胎児を持っていることだけでなく、衆生はそのことに気づき得ず、自分で自分を開くことができないでいる存在であること、如来こそが衆生にはたらきかけてその衆生を仏にならしめることを訴える思想なのです。」(竹村)
    「自己が自己の根源に徹することが、宗教的入信である、廻心である。しかしそれは対象論理的に考えられた対象的自己の立場からは不可能であって、絶対者そのものの自己限定として神の力と言わざるを得ない。信仰は恩寵である。我々の自己の根源に、かかる神の呼声があるのである。」(西田)

    自分の力で、やるだけやって、内なる恐怖、孤独、怒り、恨み、嫉妬……から、逃れ、楽になりたいといくらあがいても、どう闘っても、その桎梏から解き放たれない。何千時間、カウンセリングを受け、酒や薬で痛みを束の間忘れたとしても、ほんとうの安らぎは、得られない。

    無力、虚無、絶望の果てに、何かに向けて手を虚空に差し伸べるしかなくなったとき、握り返してくれる何ものかの手のぬくもりが感じられるのだろう。いや、すでにいつも傍らにいて、つまずけば抱きかかえ、倒れた時には背負い、かついで今日まで、ここに連れてきてくれたのが、神とか仏とか、名づけられる自分を超えた存在なのだろう。それ以外の議論など、抽象的な観念遊戯にすぎず、自我の思考が生んだ蜃気楼の幻の中にいるようなものなのだ。

    ブッダが、「自覚(意識を覚醒させる)の道」と言ったゆえんなのだろう。そのことに気づいたとき、同じ悲しみ苦しみに沈む仲間のことが思われ、できることから愛と慈悲を生きるよう自然に促される━それが、仏性発現のささやかな始まりなのだろう。

  • 流水:
    2025年5月30日

    石部顕さま、深くて鋭く、また温かいコメント有難うございました。『はじめての大乗仏教』は竹村牧男先生の著作の中では講談社現在新書から出された小作品です。しかし大変パワフルな新書だと思います。一人でも多くの方に読んでもらいたい本です。

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