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遊女の問いと数学の難問に答えた━法然と岡潔の「光源」

静かな安らぎの心、平安が私たちの本性である。
恐怖のただ中でさえ、安らいでいる中心がある。
あらゆる嵐の中でさえ、平安で静かな人がいる。
この平安で静かな部分が、私たちの本当の存在。
にもかかわらず、落ち着きを失っている私たち。
━賢者の言葉
数学の世界3大難問を解いた岡潔の方法
青年の頃、科学者になりたいと思っていた私は、宗教には、全く関心がなかった。それを変えたのが、数学者・岡潔(おかきよし)著『春宵十話』との出会いであった。岡は数学の世界3大難問を、一人で解いた。その発見がなければ、今の数学の3分の1はない、とさえ言われる。フランスのある有名な数学者は、Kiyoshi Okaは、複数の数学者たちによって構成された集団の名称だと思っていたという。それほど、常識的には到底一人では不可能と思われる偉業を成し遂げた岡は、湯川秀樹、朝永振一郎の数学の師でもあった。一体どのようにして、3大難問を解き、数学の世界に新しい進化をもたらすことができたのだろうか?
岡は、毎朝、仏壇の前で、「念仏(南無阿弥陀仏)」を1時間唱え、そのあと数学の問題に取り組んだ。念仏により表面意識の自我は鎮まり、透明になり、次第に澄んでゆく━泥水が沈殿し、上澄みが澄んでくるように━意識の集中は深まり、極まり、没我の状態になる……。そうして数か月するうちに、「牛乳が、少しずつ固まってゆくように」問題が、自然に解けていったという。その体験から、岡は、坐禅(只管打坐)によって「仏の智慧」が開くと説く道元の言葉(正法眼蔵)に注目し、禅や念仏の宗教的な修行が、科学の真理を発見する上で、役立つのではないかと直観する。念仏や禅により、没我の状態になり、意識が統一されることで無意識に秘められた智慧に通じる回路が開かれる。仏教の真理には、科学(現象世界)の真理も含まれる。当然、ある悟りを開いた人の智慧(仏智)には、科学の真理も含まれる。その意味で、岡の直観は正しかった。
禅も念仏も、瞑想を深め、出生を超えて、何歳になっても限りなく脳を育て、知性(intelligence)を伸長し、霊性を開花する、日本に古来よりある東洋的叡智の方法である。日本人には、どのような道であれ、究めることを好む性質がある。そして、その歩みを支える工夫として、自然の恩恵とともに、瞑想を自然に醸成する仕組みが、呼吸・姿勢・所作・型(基本)として、歩む道の根底に智慧深く据えられているのだ。これを意識して、生活のあらゆる面に生かすことで、私たちは、それぞれに与えられている先天的な才能・能力・個性・天分(天命)・可能性を開花し、人生をより豊かに創造してゆくことが可能となる。それが、日本の自然・文化のもとに生まれ育った私たち日本人に与えられた有り難い恩恵の一つだと思う。
脳科学・心理学による「発見」と「悟り」の科学━ハーバード大の研究
思考や記憶は、主に大脳新皮質と旧皮質(海馬があり、記憶や感情に関与)に関わるが、念仏や禅は、脳のさらに深部にある間脳<視床下部・松果体を含む>・脳幹に働きかけ、活性させる。間脳は、感覚情報の伝達、自律神経系・体温・睡眠・覚醒・摂食・ホルモン分泌の調節を行う、性欲など本能の中枢である。脳幹は、呼吸・心拍数・体温・睡眠・覚醒など生命維持に不可欠な役割を担う。
アインシュタインも言うように、知識の切り売りや人の研究の繰り返しではない、科学に新しい進化をもたらす発見は、すべて直観・イメージ・インスピレーションに基づいている。脳科学でいえば、脳幹・間脳・視床下部、右脳が関与していることになる。ところが、戦後、日本の教育は、大脳の記憶偏重に陥り、学校の勉強はできる秀才だが現実には愚か、新しい進化をもたらす智慧から見れば無力な人間を作ってきた。その結果の一つが、今の日本の停滞と危機である。古来より続けられ、戦前までは残っていた「日本型の教育」のあり方を、科学的知見も踏まえて新たに復活させる必要があると思う。
戦後、日本式の教育を禁じたアメリカは、その可能性を見抜き、自国の教育・研究・ビジネス・経営などの最先端で活用しているのが実態なのである。その一例が「マインドフルネス」、経営・コーチング分野で普及する「哲学としての仏教」などである(スティーブ・ジョブズ、ラリー・エリソン、マーシャル・ゴールドスミス等)。将来、日本の精神文化は、アメリカから、逆輸入されることになるだろう。
観たものを瞬時に記憶する「写真記憶(photographic memory)」という力が、人間にはある。それを開発する手段として有名なのが、空海が行った「虚空蔵求聞持法」である。真言を、百万回唱え、念仏するのだ。京都大学人文科学研究所所長・京都国立博物館館長を務めた上村春平先生は、若い頃、この求聞持法を実践された。先生とは、一対一で、直接じっくりと対話(質疑応答)する機会を頂いたことがある。学者としてだけでなく、人としての器、真理を問う若者への愛情、教養と体験に裏打ちされた智慧の奥深さに、先生の広範囲な業績の源となる力を感じる思いがした。日本の高等教育の現場に、本物の教養を身に着けた学者・教育者がいた幸せな時代、有り難くも忘れられない思い出である。
現代でも、念仏(南無阿弥陀仏)を唱えることで、驚異的な記憶力、写真記憶を開いた僧侶がいる。その方は、同時に、先に起きることを察知する力も開かれていた。仏教では、そうした能力のことを神通力と言うが、重要なことは、禅定力(精神統一の力)を深め、内なる仏智(すでにあるが潜在している記憶・情報・智慧)を開くならば、誰もが、宇宙にある虚空蔵=無限の智慧にアクセスすることができるという事実である。心理学や脳科学では、これをどのように説明しているのだろうか。
ハーバード大学の研究によれば、坐禅(瞑想)を、一日45分、わずか8週間続けるだけで、主に記憶と感情に関わる海馬が、5%大きくなる(同時に、ストレスで肥大化している扁桃体が5%縮小して正常に戻る)。脳にとって、5%の大きさとは、何か一つのことができるようになる、例えば弾けなかったヴァイオリンが弾けるようになるほどの脳の変化であり成長である。それに匹敵する新しい脳細胞の増加と新たな神経ネットワーク・回路が、坐禅・瞑想によって脳に構築され、開発されるのである。
人間にとって、最も身近にある自然は、肉体であり、呼吸である。瞑想で呼吸に意識を集中することで、それまで大脳の表面・新皮質に集まり、過去にとらわれた思考や感情に空回りしていた意識が、記憶に関わる海馬、感情・感覚・直観・自律神経・ホルモン分泌・本能等に関わる間脳、さらには運動・呼吸・心拍・睡眠・覚醒等に関わる脳幹を、本来の自然で健康な状態に整える。次第に、集中・安定・統一・調和が深まると、あるがままの自分・意識・世界の実態が見えるようになり、そこにあった可能性・意味・助力・呼びかけ・メッセージなどが意識に現れてくる。
悟りとは、それまで気づかなかった自分の意識の実態・本性・実相が、次第に見えてくることである。それゆえ「悟」という漢字は、自分(吾)の心(立心偏)と書く。人類の教師たちが、そろって、自分自身の心(汝自身)を知れ、如実知自心(あるがままの自分の心を知る)、真実の自己を究明せよ、と言ったゆえんである。自己を知ることは、他者を知ることであり、世界を知ることである。
念仏でも同様な効果が期待できる。念仏は、言葉(言霊)であり、音であり、「振動」すなわち、エネルギーである。「宇宙に存在するすべてのものは振動している」というのが最先端科学の常識である。ナムアミダブツを繰り返し唱える声の振動が、脳にどのような変化をもたらし、何を引き起こすのだろうかー。
念仏で繰り返される音の振動は、ダイレクトに間脳・視床下部と脳幹に響き、脳の最も古い層を刺激し続ける。心理学、生理学的には、本能・潜在意識を活性化することにつながっている。例えば、動物が、火事を察知して先に逃げる本能には、深い智慧が秘められている。日本文化、日本の科学技術を支える「職人」の技や名人と言われる人の仕事にも、この本能・潜在意識レベルの感性的“智慧”を見ることができる。
ここに、建築技術・芸術感覚において、法隆寺の五重塔や広隆寺の弥勒菩薩像などを観て分かるように、古代人の方が、われわれ現代人よりも、先天的な感性・本能・潜在力を豊かに開花していたことが分かる。昔の日本人にとって、瞑想(禅と念仏)は、ごく自然な生活の営みを通して深められるものだった。今の私たちも、昔の日本人にならって、瞑想を仕事に、生活に、趣味に、取り入れ生かすべきだと思う。必ず、結果として、繁栄、健康、幸せに寄与することだろう。すでに、その証明は、昔から日本でなされているのだから━。
心の使い方によって、脳細胞は、新たに増加し、新しいネットワークや回路が生まれる。間脳・視床下部・脳幹が活性・成長すると、右脳にも影響を与え、脳全体が活性する。心理学的には、潜在意識に眠る情報、記憶、智慧が湧いてくる(思い出す)状態になることを意味する。それを継続することで、「仏智(普遍的な真理・智慧)」が開く意識の状態が準備されることになる。換言すれば、振動する意識エネルギーの周波数が、無限の叡智を蔵する「虚空蔵」の智慧の振動と同調してくるわけである。プラトンに言わせれば、岡潔は、毎朝1時間の念仏によって、意識のリズムが、真理<イデア>のある実在界にアクセスできる状態に調和され、数学=普遍的真理の解答・アイデアを「想起した(思い出した)」ということになるだろう。
人間が、一生に使う脳は、わずか3%で、97%は使わずに終わると脳科学は言う。心理学では、全意識のうち顕在意識(自覚できている意識)が、5~10%で、潜在意識(無意識を含む)が、90~95%を占めているとみる。別の言い方をすれば、人間の意識に与えられた可能性・能力・才能・天分のうち、ほとんどの人が、10%ほどしか使っていないのが現状である。100%開花した人は、ブッダやイエスであろう。本物の天才になるほど、開花された割合は上がるだろうが、せめて私たちも、それぞれに与えられた意識の50%は、開発して人生と世界を豊かにしてゆきたいものである。
念仏や禅は、戦後の日本人が忘れた、未開発の脳力・能力を開発する、古くて新しい手段であり、それを生活・仕事・趣味・全般に生かす工夫をするとよいと思う(最近では、「素読」が見直され、日本語の音読を初め、英語学習では、道元の只管打坐に倣った「只管音読」―英語の文章を「繰り返し」朗読し、「念仏」のように500~1000回と音読するなどの取り組みが行われ、成果を出しつつある)。
今回は、そうした念仏が開く人間の潜在力について、未来の可能性に思いを馳せながら、日本の歴史・文化において、日本人の潜在力を開いてきた念仏のルーツと軌跡を辿ってみたい。
■すべての人が平等に、仏と一つとなり、世界を荘厳する━人と仏を結ぶ慈悲の自覚
日本において、誰もが仏の慈悲を体験できる道を開き、民衆に弘めたのが法然、親鸞たちであった。聖徳太子によって、日本の国の精神と文化の土台に、神道や儒教・老荘・陰陽思想などと融合する形で、仏の慈悲と智慧が据えられ、最澄によって、人には皆平等に仏性が備る、という如来蔵思想が僧侶の中で徹底された。そして法然によって、万人が平等に救済される生きた思想として、一般民衆のただ中に伝えられた。それは、「念仏」という実践法(方便)により、圧倒的な力をもって民衆の間に広まり、生活に根づいてゆくことになる。万人の魂に、平等に宿る仏性━ここに「仏の子」である人間 の自由と平等、尊厳の本質が高らかに謳い上げられ、その開花と実現に向けて民衆を救い励まし導いたのが、法然・親鸞たちであった。
それまで、インド・中国・日本において、阿弥陀仏の信仰と念仏による救いは、五逆罪(父・母を殺す、仏を傷つける等の罪)を犯した者は除くとされていた。法然は、そうした罪を犯した悪人も含めて、すべての人が平等に救われると宣言したのだ。すべてのいのちは平等であり、救いもまた、まっ たく平等にもたらされる━。世界の思想史から見て、ここまで徹底した平等思想を説いたのは、法然が初めてであり、革命的思想であったと言える。その思想の重要なもう一つの点は、親鸞において徹底されることになる救済のビジョンにある。この世から、あの世の浄土へ転生した(往相廻向)後は、衆生救済の願いを実現するために、急ぎこの世に還って(還相回向)、仏の慈悲のままに衆生を自在に済度するという救済ビジョンが、明確に示されたことである。それによって、仏の慈悲(すべてのいのちの悲しみを抜き、喜びを与える)と、私たち一人ひとり、すべての衆生とのつながりを復活させ、永遠の生命として転生しつつ世界を仏国土にする、仏と人の協働の道が開かれたのだ。
仏教では、自覚(悟り)が深まれば、当然、潜在意識に記憶されている自分の前世を感得することができると説く。実際、聖徳太子が自らの前世を七代前まで悟られ(『七代記』)、法然は、前世においてブッダの教えを直接聞いたと語り、親鸞は、師・法然を勢至菩薩の生まれ変わりであると信じて疑わなかった。菩薩の願いである四弘誓願の第一、衆生無辺誓願度(すべての衆生を救うことを誓い願う)は、永遠の生命として転生(「てんせい」とも表現される)することが前提になっている。この願いが、仏性抱くすべての人の中にあり、その自覚と実践の道を一般大衆に開いた点で、まさに聖徳太子によって播かれた「在家仏教」の精神が、法然と親鸞たちによって結実したと言える。
■聖徳太子から法然・親鸞へ、開花した日本仏教の精華━あなたは、すでに救われている
重要なので繰り返すが、法然・親鸞の果たした役割は、日本仏教だけでなく、世界の思想史における革命であった。それまで救済から除外され、条件づきだった五逆罪、十悪を犯した者、正法を誹謗した者、真理を否定するニヒリストも、みな救われる。女人も等しく救われ、まさに罪深き者こそ、阿弥陀仏の誓願・慈悲によって救われる、と宣言したのだ。ここに、日本において聖徳太子により宣揚された、いかなる人間も如来となる本性を蔵しているとする如来蔵(仏性)思想が、庶民の中で徹底され、仏の慈悲がいかなるものか、業(カルマ、繰り返す過ちの原因となる力)の闇を遥に超えて、一切を抱擁し、救い、成長させる偉大なる力(サムシング・グレート)の光が自覚されたことになる。鈴木大拙は、これをもって「日本的霊性」の覚醒と言った。
圧倒的な自然・宇宙の慈悲光、仏性・願いの光が、煩悩・業の闇を光に変える救い
仏性とは、仏の本性であり、仏の慈悲と智慧を意味する。つまり、仏性には、一切の衆生を救済し、仏性を開花させ、この世を仏国土にする願いとビジョンが込められている。しかし、その願いを忘れ、私たちは、煩悩と業の闇の重さに呻吟し、絶望と虚無の闇に呑まれそうになる。そうした私たちを丸ごと抱擁し、闇の世界をも包み、許ゆるし、認め受け容れている大いなる光と力がある真実━。その真理に目覚める道を開いたのが、法然と親鸞たちであった。仏の光に、私たちの仏性の光が呼応し、煩悩と業の闇を圧倒的に凌駕して、救いと安らぎ、至福をもたらす潜在力の開花━。すでに、すべてが救われている事実に気づくだけ。法然によって発見(自覚)された「あなたは、すでに救われている」という真理ほど、普遍的で、美しく、歓喜に満ち溢れた真理 はないのではないだろうか。
■法然の救い━業の闇の深淵、民衆の悲しみに共鳴して広がった覚醒のネットワーク
戦いに臨む武士からの問いかけ━こんな罪人でも救われるのか
法然の教えの核心に、二つの出会いを通して迫りたい。まず、ある武士との出会いから━。
一人の武士が、朝廷の命を受け、戦いに赴く直前に、法然と出会い、次のように尋たずねた。
「私は武士の家に生まれ、弓や刀で戦う、運命の定めにあります。戦いの最中には、悪心が燃えさかり、救いなど求めれば、敵にからめ捕られ、臆病の汚名を着せられ、家は断絶してしまいます。このような罪人の身でも、救 われるのでしょうか━」
法然は、答える。
「阿弥陀仏の救いは、身の浄不浄、善悪、優劣など一切を嫌わず、いかなる時と場にも及びます。罪人は罪人ながら、仏を念じて往生する。戦いに命を失うも、必ず、仏が来迎し救われます。ゆめゆめ疑ってはなりません。 ……」
事細かに心の持ち方を授ける法然の言葉に、武士の疑問はとけ、心が安らいでいった。
武士は、「これで今日、往生は定まりました」と言って、立ち去ろうとする。その時、法然は、自ら着けていた袈裟をぬいで、彼に手渡して言った。
「これを、鎧 (よろい)の下に、着けて行きなさい」━。
戦場で、武士は命懸けで戦い、やがて刀折れ、もはやこれまでというとき、刀を捨て、両手を合わせ、一声、「南無阿弥陀仏」と称え、身を敵にゆだねた。
武士の魂は、確かに救われた。常に、いかなる時と場においても、仏のあわれみ、救いの光は、すべての人に注がれている。その慈悲は、人間の善悪、正邪、罪の有る無しなど関係なく、私たちを圧倒的な光で包み、癒し、救い、 導く力である。それゆえ、己の愚かさと罪の自覚あればこそ、光は妨げられることなく、より深く強く魂の神髄にまで達することができる。自分はできる、善人である、優れている、悪などない、といった傲慢の闇が、かえってその光を遮ることになる。そのような自分の闇に気づいていない思い上った善人でさえ救われるのだから、悪人であるとすでに自覚できている者が、救われないことなどあり得ないではないか(悪人正機)━。
生きている者、人間ならば、命を傷つけず、食らわず、罪を犯さずに生きることなど誰もできない。直接、罪に手を染めていなくとも、この世の罪に一切関与していないと言い切れる人がいるだろうか。人間であること自体が、罪を、悪を犯さざるを得ない存在である、━それこそが人間・人類の闇、業(ごう)の根底にある実体なのだ。だからこそ、煩悩を抱いたまま、すでに救われている、愛されている事実に気づき、慈悲の光に感謝してすべてを委ね、新たに報恩に生きるだけなのだ━。法然と武士の絆が、そのように時を超えて私たちに語りかけているように思われてならない。
流刑の途上に出会った遊君との対話━「自分を卑下してはなりません」
念仏を禁止され、流罪となった法然は、流刑地に赴く途上、瀬戸内の港「室(むろ)の泊(とまり) 」で、一人の遊女と出会う。
法然が港に着くと、一艘の小船が近づいてくる。遊女の船だった。
一人の遊女が、法然に問う━「生きる道は人様々ですが、私には一体どのような罪があって、このような身になってしまったのでしょう。罪業重き身、どうすれば、後の世に助かることができるでしょうか」
法然は、憐れんで言う━「確かに、そうして世を渡わたる罪障は軽くはなく、報いもはかりがたいでしょう。もし、ほかに生きる手立てが思い当たれば、今すぐ今の生業を捨てるがよい。が、思い当たることもなく、身命をかえりみないほどの道を求める心が起きないならば、ただ、そのままでよい。一心に、念仏するだけでよい。阿弥陀如来は、罪人のためにこそ、願いを立てられたのです。ただ深く本願を信じて、自分を卑下してはなりません━」
すべての人を救う仏の願いを信じて念仏するなら、往生は決して疑いない ━、法然が心を尽くして丁寧に教えると、遊女は、随喜の涙を流した。
別れた後、「遊女の信心は堅固だから、必ず往生を遂げるに違いない」と 法然は言った。
歳月が過ぎ、京に戻ることになった法然は、港に寄り、遊女の消息を尋ねた。ある人が、「上人の教えをうけたまわった後は、この近くの山里にすんで、 一筋に念仏をなされていましたが、幾ほどもしない間に臨終を迎え、みごと正念往生を遂げられました」と言った。 法然は、「そうだろう、そうだろう━」と、幾度もうなずいたという。
法然は、遊女に、「自分を卑下してはなりません」と言った。戦乱と飢饉の時代、多くの人々が、悪を犯し重ねなくては生きてゆけず、そのため当然、自分を卑下し、責め、地獄落ちを思い、恐れていた。善行を積んで往生を得る自力の道など、望みようもない。弥陀の願いを信じ、身心を委ねて生きる、絶対他力の念仏以外に、道はなかった。
しかし、自分を卑下し、責めさいなむ心では、弥陀の慈悲の光を、素直に受けとめることはできない。心を、仏に、光に向かって開けない、開こうとしないからだ。自分を責めさいなむ意識は、自分を自分で許していない、誤った思い込みであり、自我の闇である。心は闇に向き、仏の光には向かっていない。どれほど罪を犯していようが、 罪業が深重であろうが、そのまま、あるがままに、自分は弥陀の光に抱かれ包まれ救われている━仏は、すでに許し、癒し、愛しておられるのだ。その事実に、ただ心を開き、光の方に心を向け、光を感じ、光に抱かれ、心の空洞が光に埋められ、安らぎ救われる体験をするだけでよい━。
法然は、地獄必定の絶望に、心が落ち込もうとする遊女の全存在を受けとめ、絶対の仏の慈悲、救済の威神力、圧倒的な光の力に彼女の気持ちをつないだ。その瞬間、彼女は光に打たれ、光の奔流に包まれ、安心(安らぎの心)を得て救われ、随喜の涙を流したのだ。
「女人往生」への道を、法然は開いた。仏の絶対の大悲は、性別、貴賤、善悪是非、一切を超越する。人は誰も皆、自然法爾(じねんほうに) ━あるがままに、仏の大悲の光を受けて、自然法則の力のままに生き、生かされ、幸せになるように創られているのである。
自然の大きな力(サムシング・グレート)と一つに生きる念仏━法然の真骨頂
法然は、大いなる力(仏)と私たちとの絆、意識が永遠の生命であることを自覚させてくれた。念仏は、南無阿弥陀仏と称えることで、意識を阿弥陀如来に向け、その大いなる光の波動に心身を委ね、共振し、包まれ、運ばれるための方便である。阿弥陀如来とは、「無量寿無量光如来」の意味で、無限の時間と空間を満たし働く慈悲の光である。宇宙・自然の根源的エネルギーで、南無阿弥陀仏と念仏することは、宇宙の根源的エネルギーと一体になって生きることに導かれる。
念仏により、仏の慈悲と本願に運ばれ浄土に生まれ、急ぎ娑婆世界へ衆生救済のために生まれ変わる━。この思想に、人間の本質は永遠の生命であり、転生して生き続けている真理が明らかに示されている。そして、すべての生きとし生けるものを救う願いを抱いて、慈悲の行を生き抜く、永遠の生命のビジョンが明かされている。万人が平等に仏性を抱き、救われる(すでに救われている真実に気づく)存在であり、大きな力(サムシング・グレート、仏)と結ばれ、永遠の生命として慈悲の光を生きる━。新しい人間観、世界 観、価値観、衆生の救済と仏国土実現のビジョンを掲げ、民衆の中にあって、生涯、無位無冠、墨染の衣に金剛草履(ぞうり)を履いて、救いの道を開き、説き、広めたのが法然であった。
自分の業の深淵と向き合い、民衆の悲苦に共鳴して広がった覚醒のネットワーク
「十悪の法然房、愚痴の法然房が、念仏して往生せんと言うなり」━。十悪とは、殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、悪口、両舌、貪欲、瞋恚、邪見。愚痴は、理非の区別がつかない愚かさ━。父を殺され、母と離別し、悲惨を極める世の中に独り立ち尽くす法然。内を見つめれば、十悪の闇、業の嵐にただ翻弄される無力な己。その「絶望と孤独の門」を通り抜け、邂逅した仏の絶対なる慈悲の光。すでに極悪人のままで救われていた真実に目覚めた随喜と感謝━。自身の心の闇、業の深さを、知れば知るほど、圧倒的な仏の慈悲の光に抱かれ、導かれている自分を知る(自覚する)ことができたのだった。
法然は、念仏により、人の無意識・潜在意識にはたらきかけ、そこにある「誤った信念」と業の力を無力化し、新たな「正しい信念」に「書き換え」、阿弥陀如来への「信」によって業を超えさせようとした。信とは、阿弥陀如来によって授けられた信である。━「源空(法然)の信心も、如来よりたまわりたる信心なり、善信房(親鸞)の信心も如来よりたまわらせ給いける信心なり。さればただ一つなり」(『歎異抄』)。「阿波介(陰陽師)も、仏たすけ給えとおもいて、南無阿弥陀仏と申す。源空も仏たすけ給えとおもいて、南無阿弥陀仏とこそ申もうせ、さらに差別なきなり」(『勅修御伝』)。
先に見た、戦いに向かう武士に、法然が語り伝えた言葉━「弓箭(武士)の家に生まれたる人、たとい軍陣にたたかい命を失うとも、念仏せば、本願に乗じ来迎(救い)に預からんこと、ゆめゆめ疑うべからず」。この「ゆめゆめ疑うべからず」の言霊が持つ力、威神力に、「信」━仏への確信によって根源的に業を超えさせようとした法然の真面目を垣間見る思いがする。
生まれたままの、本来の愚痴(無学文盲)の素に還り、裸の魂になって念仏する━。心に「妄念」が思われてならないときはどうすればよいか、と問われ、法然は、「ただよくよく念仏を申させ給え」と答える。妄念とは、欲や嫌悪だけでなく、浄土を求め、地獄を嫌がることも妄念とみる。これを断てとは言わず、「ただ頓着(気に)するな」と言う。
人間は、本来、仏である。仏の光を遮る煩悩の曇りを、念仏には払う力があり、煩悩の闇を菩提(慈悲と智慧、悟りと願い)の光に変え、本来の仏性の光を、仏の光に結ぶ力がある。そのことと、数学者・岡潔が、念仏によって数学の3大難問を解く智慧(真理を悟る力)を得たこととは、別ではないのだ。いずれも、同じ「光源」から発せられる慈悲と智慧の真理の力なのだから。
「信」によって業を超える━仏を信じる、念仏する、煩悩が払われ、本来の仏性の光が現れる、業の闇は菩提の光へと徐々に転化してゆく━こうしたはたらきが、念仏にはある。なんという救済の叡智であろうか。
称名念仏は、南無阿弥陀仏と、言霊にして、繰り返し念じる。南無阿弥陀仏とは、「私はすべてを阿弥陀様に委ねます」(帰命)という意味の言葉で、これを声に出して繰り返す。心理学でも明らかなように、どのような言葉であれ、繰り返し声にして表現したり、聞いたりしていると、まさにその通りの意識に、人間に、人生になってゆくという法則がある。古来、日本で言われてきた「言霊の力」である。
いついかなるときも南無阿弥陀仏と称え、弥陀の光に意識を合わせ、四六時中生きていたなら、当然、その言霊の力は、無意識・潜在意識に浸透してゆく。仏に一念を向け続けるため、仏とのつながりは強まり、同時に煩悩・業は仏の光に照らされ(自覚され)、その闇自体が光に変容し徐々に力が減じられてゆくことになる。南無阿弥陀仏と繰り返し声に出して仏を念じ、限りない慈悲の光、許し、癒し、救いの慈愛を感じ、感謝し、報恩を思 う称名念仏が開く道は、科学的にも真理に適ったものと言える。
法然が、最初に説いた「悪人正機」(悪人こそ救われる)思想━。内界の闇を見つめ、深く重い業に取り組む果てに達した、仏の慈悲のままに生きる道は、己の愚かさを知り、罪の深さにおののく多くの人々、大衆の心に共鳴し、つながり広がる道を開いた。法然が救った人々の中には、当時の仏教の救済対象とはなりえなかった、強盗、尼入道、陰陽師、漁師、遊女たちがいた。
善悪、是非、浄不浄、貴賤、人間の小賢しい思慮分別の愚かさを遥はるかに超え、大いなる慈愛の光に目覚め、仏と大衆をつないだ法然の思想の特徴は、人間が抱く業の呪縛による悲しみ苦しみへの共感と自覚の深さにある。限りなく愚かな自分を徹底して自覚し続け、知れば知るほど、その自分を救ってくださる仏の慈悲の深さ、有り難さに出会うことになる。己の闇の深さを自覚したからこそ、それだけ広く多くの人々の悲しみ苦しみ に共感でき、包容して仏の光に結ぶことができた。そして、すでに民衆の無意識にあり、目覚めることを待っていた、覚醒のネットワーク(魂の縁)があったからこそ、法然の教えは燎原の火のように広がったのである。
東洋と西洋の叡智を融合して世界の繁栄と平和に貢献する日本の役割
今の日本は、ある意味で、法然の生きたカオスの時代に似ているのかもしれない。唯物主義、科学主義、拝金主義に席巻され、心の根を失って孤独と不安、虚無と絶望を抱えて漂流する私たち━。青少年の自殺者数、精神疾患に苦しむ患者数が増加の一途をたどる今の日本。戦後教育の洗脳を受け、「信じる力(信仰)」を、「怪(あや)しい」と受け止める「条件づけ」を受けてきた日本人━。「国が滅ぶときは内部から腐る」と言われるが、日本人の意識に起きている危機が、そのまま国としての日本の危機を生んでいる。果たして、日本の未来はどうなるのか、と危惧を抱かれている方も多いと思う。
しかし、聖徳太子から、法然へと伝えられた、世界的にみても突出した日本人の叡智の遺伝子は、今を生きる私たちの中にも生きている。東洋と西洋の叡智を統合し、日本と世界の繁栄と平和のために貢献できる日本の潜在力━。その能力を甦らせ、開花することによって、世界に繫栄と平和をもたらすことが、世界・人類史から見て、本来、日本に与えられた役割ではないかと思う。その一つの可能性として、瞑想に誘う念仏に秘められた力が、科学によって解明され、禅がマインドフルネスとして世界に広められたように、念仏の潜在力が、世界の人に理解され開花する未来が来ることを信じてやまない。
10代から3,40代の若い世代に、日本人の潜在力に目覚める人々が出始めていることが、大いなる希望である。
2025/5/26
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現代に生きる私たちに、法然、親鸞が伝えようとした「念仏」のエッセンスを、わかりやすく解説していただきありがとうございます。
この世は、生きてゆくために誰かを傷つけたり、大切な物を売り渡さなければならなかった人間たちで溢れています。戦いに赴く武士、自らの業に苦しむ遊女のエピソードは、たとえ時代は違っても、この世を生きる「罪深さ」に苦悩する多くの魂を救ってくれるに違いありません。
生きている者、人間ならば、命を傷つけず、食らわず、罪を犯さずに生きることなど誰もできない。直接、罪に手を染めていなくとも、この世の罪に一切関与していないと言い切れる人がいるだろうか。
人間であること自体が、罪を、悪を犯さざるを得ない存在である、━それこそが人間・人類の闇、業(ごう)の根底にある実体なのだ。だからこそ、煩悩を抱いたまま、すでに救われている、愛されている事実に気づき、慈悲の光に感謝してすべてを委ね、新たに報恩に生きるだけなのだ━。
人間は、本来、仏である。仏の光を遮る煩悩の曇りを、念仏には払う力があり、煩悩の闇を菩提(慈悲と智慧、悟りと願い)の光に変え、本来の仏性の光を、仏の光に結ぶ力がある
「信」によって業を超える━仏を信じる、念仏する、煩悩が払われ、本来の仏性の光が現れる、業の闇は菩提の光へと徐々に転化してゆく━こうしたはたらきが、念仏にはある。なんという救済の叡智であろうか。
「念仏」の背後にこのような深い叡智があることを、恥ずかしながらAkiraさんに教えてもらうまで知りませんでした。
NATUREで心の旅に出て、自らがつくり出した煩悩の記憶と出会った時、
これからは、法然や親鸞のことを思い出して、「念仏」を唱えてみようと思います。
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