縁友往来Message from Soulmates
- 縁友往来
- 殺人鬼に向かうブッダ、千人殺せと迫る親鸞━闇こそ光る
殺人鬼に向かうブッダ、千人殺せと迫る親鸞━闇こそ光る

「いちばん反対のものどうしが、いちばん友となる」
━プラトン『リュシス』
「陰が極まって陽を生ず」(闇が極まって光が生じる)
「陰の中に陽があり、陽の中に陰がある」
━伏羲『易経』他
業の闇こそ光る闇━ブッダのまなざしに映る人間
今から約2500年前、ブッダが、56歳のとき、アングリマーラという殺人鬼を弟子にした。今でいう連続殺人犯である。以前のアングリマーラは、非常に熱心な真理の探究者であり、有名なバラモンの指導者のもとで修業に励む真面目な青年だった。しかしある日、師が、外出したときのこと、━その夫人が、美男のマーラをそそのかし、関係をもとうとしたのだ。彼は、それを拒絶する。が、怒った夫人は、夫の帰宅後、髪を振り乱し、「マーラに襲われた」と嘘を言ったのだ。
師は、妻の言葉を信じた。弟子の裏切りに激怒し、「永遠に苦しませてやる」と誓う。そして、マーラを呼んだ。━「お前は、学ぶべきことは学び終えた。だが、最後に一つだけ、修行が残っている。それをやり遂げれば、悟りは完成する。その修業とは……人、100人を殺し、その指を切り落としてつなぎ、首飾りを作ることだ」と言って、剣を渡した。
アングリマーラは驚き、迷った。が、すべてを賭けて信じてきた師の言葉である。最後、師の言葉に従う決意を固めた。「修行」を成就するために、アングリマーラは、街角に身を潜めて人を探した。そして、一人、また、一人と殺していった……、眼は血走り、髪は乱れ、顔は阿修羅の形相に変わっていった。
皆が、彼を恐れた。誰も捕らえることができず、街から人影が消えた。噂は、やがてブッダの耳に達する。━ブッダは、この殺人鬼を救おう、と思うのだった。そして、おもむろに立ち上がり、彼がいると思われる場所へ、ひとりで歩いて行った━。
アングリマーラは、すでに99人を殺めていた。あと一人で悟りに達する━。その一人を、血眼になって探していた。その時だった。道の向こうからやって来る、一人の僧侶の姿が目に入った。大声で叫んだ━。
「止まれ、沙門!」
ブッダは、立ち止まった。そして、言った。
「私は、止まっている。止まってないのは、あなただ。
邪教にだまされ、妄りに人を殺めるあなたの身も心も安らいでいない。
憐れに思い、救いに来たのだ。
迷える者よ、悪夢より目覚め、無上の悟りの道に入れ!」
魂を揺さぶる言霊に、アングリマーラは全身が震え動けなくなった。
慟哭し、足もとから崩れ落ち、そしてブッダにひれ伏した━。
ブッダは、その場でアングリマーラを弟子にする。なんとアングリマーラは、ブッダの教えを聞いた直後、その日のうちに悟りを開いたのだった。━「私の弟子の中で、法を聴いて早く悟ること、彼ほど優れた者はいない」とブッダは言った。
一方、殺人鬼アングリマーラが、ブッダのもとにいることを突き止めた王は、武装した兵士を連れ、彼を逮捕するためにやってきた。その王に向かって、ブッダは言った。「アングリマーラは、悟りを開いて、今ここにいます」と。王は、「悟りを開いた、というのなら逮捕はしない。が、一度、会わせてほしい」と言う。ブッダは、傍にいたアングリマーラを呼び、王に紹介した。王は、その姿を見て驚いた。が、逮捕しないとブッダに言った手前、そのまま引き下がるしかなかった。しかし、民衆の怒りは収まらなかった。
強烈な恐怖と恨みは、それだけ激しく人々を復讐に駆り立てた。アングリマーラが、街に托鉢に出かけると、人々は石を投げつけ、罵倒し、恨みと憎悪の言葉を投げつけた。彼は、毎日、血みどろになって、ブッダのもとに帰ってきた。アングリマーラのすべてを知っていたブッダは、ある日、彼に言った。
「あなたは、来世に受ける苦しみを、今受けているのです。だから、すべてを受けとめ、耐え忍びなさい。そして、人に対しては、『私は生まれて今まで、人を殺したことはありません』と言いなさい」と教えた。
99人殺した事実は誰よりアングリマーラ自身が自覚している。なのに、殺したことがない、とは一体どういう意味なのか……。ブッダは、その思いを受けとめて言った。
「悟った時が、本当に生まれた時なのです。だから、それ以前は、無明の自我が為したことで、あなたが、生まれる前にやったことなのです」
ブッダが放つ慈愛の光に包まれ、アングリマーラの涙は止まらなかった。そして沈黙の中で誓う━「このご恩に報いるためにも、私は何度でも生まれ変わり、衆生を救うために生きる」と。
ブッダが発した慈悲の光は、1800年後の日本に甦る。人は業の深い闇を抱くからこそ、闇から現れ出る、より深い光と出会うことができる、━「悪人こそ往生するにふさわしい機根である」という法然・親鸞の「悪人正機(あくにんしょうき)」となって復活し、開花するのである。
■親鸞、究極の救い━煩悩が熾烈であるほど、仏は近くにいて、呼べば応えて下さる
私たち人間・人類が抱く業を超えてゆく挑戦は、法然から親鸞に受け継がれてゆく。親鸞は、「罪が深ければ深いほど成仏できる」とまで言い切った (『 歎異抄』)。
親鸞が向き合った業の深い闇━「殺すまいと思っても、業縁あれば、千人でも殺す」
以下、親鸞と弟子・唯円との対話である━。
親鸞から、「私の言うことを信じるか」と聞かれた唯円は、「はい」と答える。
さらに、「言うことに決して背かないか」と問われ、唯円は、頷いた。
すると親鸞は、それでは、人を、千人殺してもらおう、そうすれば往生間違いなし」と言った。
「お言葉ですが、私には一人も、殺せそうにありません……」
「では、どうして背かないと言った。━
これで分かるだろう。人間が自分の心にまかせて思う通りに何でもできるなら、往生のために千人殺せと言われれば、直ちに殺せるはずだ。しかし、お前が一人も殺すことができないのは、お前の中に、殺すべき業縁(ごうえん)━縁となって働く業の力━が、備わっていないからだ。
自分の心がよくて殺さないのではない。逆に、いくら殺さないと思っても、百人千人という人を殺すこともあるだろう」と親鸞は言った。
罪や悪は、その根源を問えば、表面的に見える人間一人の意志や善悪の判断・行為だけによるものではない。人間を突き動かして押し流す、人類の業とも呼ぶべき巨大なエネルギーの流れが世界を席巻している。その力が、影響が、一人ひとりの無意識にも流れ込んでいる。その宿業の力に、親鸞は生涯向き合い、救いを求めた。そして、それを可能にする唯一の大いなる力(阿弥陀如来の力)と出会った。
在家にあって仏道を生きる━妻を持ち、煩悩具足のまま救われている事実を明かした親鸞は、僧でもなく俗でもなく、愚かな凡夫(煩悩に束縛され迷っている人)であることを原点に、道を求め生きようとした。
日本仏教、究極の精華━「横超」「 慈悲(大菩提心)」「 本願ぼこり」「自然法爾」
「横超」とは、よこさまに迷いの世界を超えさせる、━修行の段階を経ないで、たちまち悟りを開く浄土門の頓教(修行の段階を経ずに一挙に最高の真理を悟る教え)のことである。それは信楽━素直に信じ喜ぶこと、阿弥陀如来の本願を信じて疑わない心であり、それは即、仏になるべく願う心━大菩提心であり、横超の金剛心と名づけるという(『教行信証』)。
なぜ、「横」 なのか━。自力で修行し、煩悩を浄化して智慧を求め悟りに至る救いの道を、 縦 (登るべき階段、ステップがある)の道とすれば、それに対して、煩悩を抱いたまま、そのまま、たちまちにして救いに至る道なので横の道と言った。「超」には、修行の階梯を経ずに、直ちに救いに到る意味が込められている。
私たちは本来、自分(自我)だけの力によって、業を超えることはできない。仏の助力を得て、初めて業を超え、救われ、潜在力を開くことができる。 弥陀の本願を信じ、委ねることにより、仏と自分との間に不思議な境地━仏につながり、仏の力が自分に働き、自分の力を超えて仏の慈悲に生かされ救われる潜在力が開花する━それが、「超」に込められた意味である。
その心を、親鸞は、法然と同様に、「如来より給わりたる信心」と言い切る(『歎異抄』)。念仏の不思議な力によって、自力修行の縦の階段を経ることなく、繰り返す宿業の流れを抱いたまま、自我の計らいや今の煩悩具足の自分を横ざまに超えて、悟りと救いの世界に入るのだ。
そして、「浄土の慈悲といふは、念仏していそぎ仏になりて、大慈大悲心(すべての衆生に喜びを与え、すべての衆生の苦を抜く)をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり」と語る(『歎異抄』)。
浄土の慈悲とは、 まずは念仏して急いで仏となり、その後、思う存分、仏の大いなる慈悲と智慧をもって衆生を救うことだという。私たちは誰も、自分自身の心の慈悲、自力の慈悲だけで、 思いのまま人を助けることなどできはしない。念仏によって仏の力と一体になってこそ、最後まで一貫して徹底した慈悲心を生きることが可能になるのだ。
なぜなら、それは仏の慈悲であり、とても自力の慈悲などによって身に具えることなどできない慈悲だからだ。人を救うのは、自分ではない。仏なのだ。仏の力によってのみ、人は救われる。実際、いかに修行を究めようが、誰も、自分の力だけで、人を、いや、自分自身をさえ、救うことなどできないのである。
罪業深い自分の心は、仏の心と、一対一につながっている━「親鸞一人がためなり」
国家権力の弾圧に遭い、僧籍を剥奪され、流罪となった親鸞は、いかなる時でも、弥陀の慈悲の光の前に、心を開き、裸になった。弥陀の慈悲の光が、自分を包み全身に沁みわたり、 心の闇や空洞が光で満たされ、癒され、安らぎ、救われている事実を体験する。 親鸞は、煩悩具足の身であればあるほど、仏は遠くなるのではなく、逆に近く、 すぐ呼びかければ応えて下さる、親しく呼びかけることのできる存在であることを明らかにした。
親鸞が常に口にしていた言葉がある。━いかに罪深い者でも救いたいと願われ、永い時をかけて成就された阿弥陀如来の願いは、 よくよく考えれば、「ひとへに親鸞一人がためなりけり」━思えば思うほど、 知れば知るほど、自分ほど深く重い業を抱えた者はいない。弥陀の願いは、 そんなわたし一人のためにあったのだとしか思いようがないのだ、━と言う。 誰にも言えない孤独、恐怖、絶望、深い業の闇を抱く私のすべてを知り、受けとめ、許し、救っ て下さるのは、唯一、仏の慈悲のほかには、なかったのだ。
親鸞は、弥陀の本願に甘えてしまう気持ち、「本願ぼこり」を否定しなかった。━「悪人であっても本願の前にあまえるほどの気持ちがあるからこそ、 本願他力を頼る信心が不動になるはずのものです」「いったい、どんな悪を、 本願にあまえるもの、本願ぼこりというのか。どんな悪が、弥陀の本願にあまえないでいられるのか。本願にあまえるのをむやみに非難することこそ、かえって思慮のあさいことかと思われる」
そして、「自然法爾(じねんほうに)」について語る。━「行いが悪ければ悪いにつけ、ますます本願のお力を仰ぎ申し上げるようにすれば、自然の道理で、おだやかで平安で、怒りを含むことのない心もおのずと出てくるはずです」「ただ、 ほれぼれと、弥陀のご恩がわれわれにとっていかに深く重いかを、つねに思い起こさせていただくべきなのであります。そうすれば、念仏をひとりでに、となえることができます。これが、自然です。自分のはからいのないのを自然と申すのです。これが、とりもなおさず他力というものであらせられる」
つねに仏からはたらきかけられている慈悲の光と力を感じ受けとめ、喜び、感謝をもって仏に応え、自らも慈悲の光を生きて放つ━それが自然、自(おの)ずから然(しか)らしむ<そうさせる>、法の爾(そのまま)であるがゆえに法爾(仏の願いの力によるゆえに、そうなのである)と言う。
親鸞の念仏は、煩悩具足のままですでに救われていたことへの目覚めであり、人間の善悪や業によって妨げられることのない圧倒的な救いであった。 すでに誰もが救われている━。この事実を広く、深く伝える切実な願いを抱き、喜びを分かち合おうとした。そして最後に行き着いた境涯が、「自然法爾」━自然に、あるがままに、一切を仏にまかせきって生きること、心を開いて、わたしのすべてを仏に明け渡し、お使いいただくことであった━。
人間を包み、人間を遥かに超えた大きな力(宇宙・自然の意思、仏の慈悲と智慧)から、すでに救いの手が差し伸べられている。私たちはただ、その手を素直に自然に握り返せばよいだけなのだ。私たちは、もれなく阿弥陀如来に救われている。そう思える心自体が、阿弥陀仏の成就された願いによるものなのだから。
私たちは、内からも、外からも、仏によって慈悲に目覚め、生きるように促されている。その呼びかけに心開いて生きる自然法爾の境地は、自力の限りを尽くして道元が到達した境地に通じていることが不思議である。道元は言う━
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる」(『正法眼蔵』)。同じ山を登る のに、道は違っても、最終的に行き着く頂上の悟りは同じである。
深く重い煩悩と業を抱く私、━自分の内界の闇を徹底して自覚するところから始まった親鸞の求道 は、それゆえに、人間の計らい、自力の努力、善悪で裁く正しさ、罪業の深い力などを遥かに超えた、一切を生み、一切を知り、一切を包容する圧倒的な光の力に自らを委ねる、絶対他力の念仏へと導かれていった。深き闇にこそ、より深き光が、現れる━それは、宇宙の法則であった。
■業の深い闇を、自覚するからこそ、大いなる慈悲と智慧の光に、出会える不思議
法然・親鸞は、自らの業の深さ重さを自覚し得たがゆえに、それだけ大きな仏の慈悲の光に邂逅できた。業が重く深ければ深いほど、より大きく深い神仏の慈愛の光に出会え、体現できる。先に触れたように、親鸞は、 阿弥陀如来が、永い時をかけて思惟され、抱かれた願いは、よくよく考えてみれば「ひとえに親鸞一人がためなり」と言っている。
自分の煩悩、業の深淵を覗き見れば見るほど、自分ほどの悪人、業の深い者はないことが自覚されてくる。その闇の深さを、阿弥陀如来はご存じで、救う願いを抱かれ成就された━。私がそうであるように、実は、自分の闇に正直に向かい合うならば、誰もが様々な人類の悪業につながる宿業を抱いている。一人として同じ業はなく、しかもそれをすべて知り尽くしておられる阿弥陀如来と一人ひとりが一つにつながり救われている━それこそが、人類に平等な救いであり、弥陀の慈悲と智慧による救いであった。
いかなる個性的で、かけがえのない業の闇の深淵にも、それぞれの闇の特性に合わせて、 かけがえのない個性の光が、顕現するのである。あなたが抱く、その闇(煩悩・ 業)だからこそ、宇宙に初めて、唯一無二の光(願い・悟り・慈悲)が輝き出すのである。「十悪・愚痴の法然」「愛欲の海に沈淪する親鸞」、その孤独、 恐怖、痛み、絶望、悲しみ、苦しみゆえに、同じ苦悩を抱く人々と共に生き、人生の伴走者となり、仏の慈悲の光の伝え手となり得た法然と親鸞━。私たちが抱く業の闇、宿命の重圧は、願いの光、使命への飛翔に変容してゆくのだ。
法然・親鸞は、繊細な感性と鋭敏な知性で、私たちの内界に蠢く煩悩の闇と業の力を観つづけ、大いなる光の力への信によって乗り越えてゆく道を開いた。信じる力により、 煩悩の闇の奥にある菩提(慈悲・智慧・願い)の光に出会い、解放することができる。 阿弥陀如来の光に、すでに抱かれ、生かされ、救われている事実に気づき、 まことの安らぎ、救済に至る、━ そして今度は、救われた者として、感謝とともに同胞の救い、世界・人類・衆生を照らして報恩に生きる━それこそが、私たち人間、誰もが抱く自然の真理の力であり、法則であることを明らかにしたのである。
世界史を顧みれば、人間の不平等・救済の不平等が当然であった12,3世紀の世界で、平安から鎌倉時代にかけ、日本において、すべての人間の平等と救済の平等が説かれたことは、人類思想史における「革命」であった。
窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通じ、通じれば則ち久し
ー伏羲『易経』
事態が、これ以上どうにもならない段階にまで達して初めて、
人は、変わらざるを得なくなる。自然の理のままに変われば、
希望の世界へ道が開く。道が通じれば、魂は永久に成長する。
2025/6/25
Comment
アングリマーラーとブッダの話しに引き込まれ、思わず若い頃の自分の姿をそこに重ねてしまいました。
大学のキャンパスに反体制運動とカウンターカルチャーの嵐が吹き荒れていた時代、私もアルベール・カミュの「シーシュポスの神話」を愛読していました。
何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか。その解答が見つからないまま、不条理な世界に反抗し、無明の闇を彷徨う中で、私は周囲に迷惑をかけ、多くの人の心を傷つけてしまいました。その記憶は心の中から消えることはなく、その後もずっと私を苦しめ続けました。
「悟った時が、本当に生まれた時なのです。だから、それ以前は、無明の自我が為したことで、あなたが、生まれる前にやったことなのです」このブッダの言葉は、時空を超えて、私も救ってくれました。
「自分は悪いことをしていないから死んだら浄土(天国)に行ける、多くの人はそう考えています。しかし親鸞は「罪が深ければ深いほど成仏できる」とまで言い切ったのですね。
私たちの「自我」はいかようにも善人を装います。自分が悪を犯してしまったという厳然たる事実を突きつけられ、自分の力ではどうにもできない深い業の闇を見せられた時、私たちは初めて、全力で仏に救いを求めるのかもしれません。
業の深い闇を、自覚するからこそ、大いなる慈悲と智慧の光に、出会える不思議。僧でもなく俗でもなく、煩悩具足のまま愚かな凡夫であることを原点に道を求めようとした親鸞、その背中を追いたいと思いました。
コメント投稿には会員登録が必要です。