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東京を築いた天海の深謀━怨霊鎮魂と江戸祭りの秘密

自然は、あらゆる生命の目的(役割)が成就し、新しい調和が生まれるように絶えず働きかけ、導いている。━その気配に感応し、使われつつ、聖徳太子が遺した「気の学問」を駆使し、江戸の町をデザインして今日に至る繁栄の礎を築き、徳川260年の平和を実現した人物がいた。
1700年、世界1人口が多い都市は、ロンドン(50万)でもパリでもなく、江(80万)だった。東京は今もなお世界1のメガ・シティーとして繁栄を続けている。
わずか400年ほど昔、寂れた湿地に過ぎなかった江戸。そこに、繁栄する江戸の未来を想像し、デザインした男がいた。天海━将軍徳川家康のアドバイザーである。
今回は、天海が、江戸・東京の土台を創った叡智と、平将門(たいらのまさかど)公の怨霊を鎮め、祀り、守護神として、今も続く江戸三大祭を始めた意味と必然についてお伝えしたい。日本人が抱いていた深淵な智慧を、味わっていただければ幸いである。
■湿地帯の荒れ果てた田舎だった江戸━天海の登場
家康は、しばしば駿府城に、天海を招き、説法を聞くことを愛した。「天海僧正は、人中の仏なり。恨むらくは、相知ることの遅かりつるを」と、家康は嘆息した。現在の日本の首都である東京=江戸を初めて開いたのは、徳川家康である。
1590年、家康は、江戸城へ正式に入城した。家康の領地が、関東になったのは、秀吉の策略であった。当時、まったくの田舎町であった関東全域を家康に与え、それまでの所領、駿河、静岡、愛知、山梨、長野の五か所を取り上げたのである。
秀吉の言葉に従い、かつての太田道灌の江戸城に入ってみると、全く荒れ果て、石垣などはなく、みな芝土手だった。ただ竹だけが虚しく生い茂っていたという。建物も田舎家で雨漏りがするありさまだった。この時、家康はみごとに秀吉の計略にはまったかに見えた。
しかし、関ケ原の戦いに勝利し、幕府を開く際にも、家康は迷わず江戸に決めた。見渡す限り、湿地帯が大半を占める江戸が、その後、世界最大の都市に変貌することなど、誰も夢にも思わなかった。
1603年、幕府を開き、江戸入りを果たした家康は、天海を登用する。天台宗の僧である天海は、天文、遁甲、方術など、陰陽道にも詳しかった。家康は天海に、西は伊豆、東は千葉にいたる広大な領地の「地相」を調べさせ、どこに江戸城を築き、都市づくりを始めるか、「四神相応(ししんそうおう)」の「大吉」の地形を探させた。まさに江戸の都市計画、ランドスケープデザインのすべてを、天海に任せたのである。
とくに奈良時代以降、天皇や将軍などの側近には、必ず陰陽師(おんみょうじ)がいて、都市計画や建設、政治や戦争の相談役として活躍した(安倍晴明も、その一人)。陰陽道は、家康に保護され(宮中では勿論)、明治を経て、戦後、吉田茂なども使っている。
もとは、聖徳太子が集大成された智慧であり、現在でも、元号、節句、暦、家相、手相、人相、さらに茶道、華道、香道、また相撲、柔道、剣道等の武道、その他、神道、仏教、儒教などにも影響を与えている。「風水」を含み、自然
環境と共生する智慧と工夫でもある(今、世界が求めている「循環型の持続可能な社会」が、すでに、江戸で実現されていた)。これからの地球と、時代から求められる発想である。
都市計画では、京都がそうであるように、古来、四神相応と呼ばれる大吉の地形が選ばれてきた。東に川、西に道、南に池か海、北に山を持つ地形を指す。大気と水の循環を含む気の流れを観た環境全体の理想モデルである(都営計画について四神相応が出てくる日本最古の文書は、聖徳太子の伝歴)。天海は江戸城を四神が守護する地━東に隅田川、西に東海道、南に江戸湾、北に駿河台━によって定めた。
さらに調査の結果、天海は、上野・本郷・麻布・白金など、七つの台地に囲まれた「本丸台地(現、皇居)」を発見した。七つの台地の延長線が交わる位置、陰陽道で、その点は極めて「地の気」が高く文明が栄えるとされている。
そこに江戸城を築くことに決めた。実際、もとの江戸城の場所に今ある皇居の地面の磁気を測定したところ、他の地の2倍の磁気を帯びていることが分かった。理由については、現代の科学をもってしても、不明である。
その場所に家康の江戸城は建設され、湿地帯と田舎町しかなかった江戸は、天海の想像、予想通りに発展の一途を辿り、今日に至る。
■江戸・徳川を守護する━鬼門封じと江戸三大祭り
鬼門は、鬼が出入りする(凶事が来る)方角とされてきた。天海は、江戸城の鬼門(東北方位)に当たる地に寛永寺を江戸の総鎮守として建てた。さらに鬼門線上、芝増上寺の近くに愛宕神社、浅草寺近くに浅草寺三十三間堂を建立。
また、寛永寺と同じく江戸城の鬼門に位置する江戸最古の浅草寺を幕府の祈願所とした。その上、家康亡き後は、それまで祀られていた神に加え、家康を東照大権現として祀ることによって、江戸城の鬼門は家康自らが神となって守ることになった。
陰陽道によれば、家康の弱点は東北の鬼門と、南西の裏鬼門となるため、江戸城の裏鬼門には、徳川家の菩提寺として増上寺を移転し守護することにした。
それだけではない。日枝神社、神田神社、浅草寺では、今なお続く、東京の風物詩、江戸三大祭りを行うことにした。
私が住む浅草では、三社祭の期間は、交通規制が敷かれ、人混みで身動きが取れなくなる(写真)。これらの祭りによって、神霊を慰め、各々の神社の霊力を保ち、江戸城の鬼門と裏鬼門を清め、守護の力を維持し続けてきたのである。三大祭りには、天海が意図した重要なねらいがあったのだ。
天海は、さらに江戸の町全体を、神道だけでなく仏教でも守り固めた。それが、江戸五色不動と、江戸六地蔵である。
東京の地名に、目白、目黒などがある。天海が、江戸鎮護のため、市街地の四隅に不動明王を配置し、それが地名に残ったものである(目黒不動→目黒、目白不動→目白、等)。同様に六地蔵が、六つの寺に祀られた(品川寺、東禅寺等)。
■地霊・平将門公の怨霊を鎮め、江戸の守護神とする
「東京都千代田区大手町一丁目一番地一号」は、皇居、もと江戸城の大手門の真正面。この場所に何があるのか。平将門公(平安中期の武将。関東に勢力を張り、謀反を起こすが、藤原秀郷らに討たれる)の「首塚」である。
天海は、意図してこの場所に、首塚を残し祀ったのだ。江戸は、江戸城を中心に開発されてゆく。大手門は、そのスタート地点。なぜ、そこに首塚などを置いたのか━。
自然を相手に土地を開発するとき、様々な困難や障害に見舞われるものだ。現在でも建物を建てるときなど、必ず地鎮祭を行い、その土地の地霊(ちれい)を鎮める。江戸開発に当たり、地霊である将門公の霊、首塚を、天海は、手厚く鎮め祀ったのである。
また、交通の要所である堀と、五街道の接点には橋(日本橋、浅草橋、新橋、神田橋等)を架け、「見附」(赤坂見附など)という見張り所を置いて治安をはかった。その五街道と、堀の交差点に隣接して、平将門公の体の一部や、身に着けていた物を祀った神社を配置した。
例えば、将門公の胴体が祀られている神田神社の位置(上州道を守る神田橋門)も、天海自らが、決めている。街道を通して侵入する悪鬼(凶事)から守るためだ。
1640年、徳川三代将軍により、約50年にわたって、江戸城は完成し、江戸の町もほぼ整った。1700年頃には、人口も約80万にのぼり、ロンドン、パリより、30万人も多い人口を擁し、日本1どころか、世界1の巨大都市へと成長を遂げ、今なお世界1のメガ・シティーとして繁栄している。
その礎となるランドスケープデザインを、天海は、古代の叡智を用いて行った。それは目に見える神社や寺院、祭りとしてだけではない。目に見えない気(エネルギー)の力が、今もなお影響を与え続け、東京の繁栄を陰で支え、守り、世界の人々を引きつけてやまない「魅力」となって流れ、放射し続けているのである。
■天海の予言━破られた鬼門と徳川幕府の終焉
天海は、「江戸城の鬼門(東北)に当たる水戸・徳川からは、決して将軍を出してはならない」と言い、代々、掟とされてきた。しかし、ついにその掟が破られる時が来た。━第十五代将軍に、水戸の慶喜がなったのだ。そして、徳川幕府は、終焉を迎えるのである。
最後まで抵抗した彰義隊が立てこもり死守した場所は、天海が鬼門を封じるために建てた寛永寺だった。彰義隊は奮戦するが、射程の長いアームストロング砲の砲火を浴び、ついに壊滅━。江戸・徳川を守ってきた寛永寺も主要な建物を焼失し、ついに鬼門は破られた。
その時をもって実質的に江戸幕府は滅ぶ。天海の慧眼、恐るべしである。寛永寺は、後に復興され今日に至る━江戸城に皇居が移り、江戸は東京と名を改めた後も、日本の首都として発展を続けた。
私にとって、東京は、第二の故郷である。18歳から50年の歳月を過ごし、日本が最盛期となる70~90年代に、青年・壮実年期を生き、謳歌し、世界の文化や情報、かけがえのない師や友人たちと出会え、願いを実現するためのベストの環境を頂いてきた。
I love Tokyo━「愛しきかな東京」である。震災や戦災で、壊滅したかに思われた東京は、その都度、不死鳥のように甦った。その陰に、日本人にさえ、ほとんど知られていない天海の尽力があった事実。
「大切なものは、目に見えない」(『星の王子様』)━。天海の計り知れない遠謀に、こころより感謝したい。
■日本文化の「御霊信仰」「将門伝説」と「鬼滅の刃」
1970年、ある新聞に、次の一文が載った。「地価一億八千万円の都有地が、千年前の首塚にまつわる怨霊伝説のために売れず、ビル化をまぬがれている。千代田区大手町一番一号。塚の主は、平安中期の武将平将門」。
怨霊伝説とは、何か━。事実として検証できる事柄のみを、以下に挙げる。
1923年、関東大震災の後、整地のため大蔵省は、首塚も崩し、土地を平らにして仮庁舎を建ててしまった。その後、大蔵省の記録によると、仮庁舎で、けが人や病人が続出し、大蔵大臣や幹部職員が、相次いで14人も変死するという現象が起こった。
震えあがった役人は、盛大な将門公の鎮魂を行うが、1940年、大蔵省本庁舎に突然落雷があり、多数の死傷者が出た。この年は、将門公の没後、千年目に当たっていた。政府と大蔵省は、急遽、平将門公一千年祭を行い、大蔵省役員全員で、将門公の霊に心から詫びをした。当時の大蔵大臣・河田烈は、自ら筆を執り、保存碑を建立した。
戦後、アメリカ軍がやってきて、廃墟と化した東京の地を、ブルドーザーで整地しようとして、何か石に引っ掛かり、横転。一人が即死するという大事故が起きた。その石が、首塚であることが分かり、日本人がGHQに説明し保存されることになった。
……以下略。
記録に残るごく一端だが、事実が物語る真実がある、と私は思っている。一つに、人間の本質は、霊(魂)であるということだ。八百万の神を感じて敬ってきた日本人は、人だけでなく、動物、植物、モノにさえ、神が宿り、霊があると感じ、敬い、大切にしてきた。
今、一神教の神と神との戦いで悲惨を繰り返してきた海外の人々から、普通の日本人が抱く宗教以前の自然な感性、他を思いやる感覚が称賛される事態が起きている。包容する「和」のこころの真情である。
日本文化に深く流れている「御霊信仰」━受験の神様で有名な、天満宮は、菅原道真の怨霊を鎮め祀る神社である(平将門公は菅原道真の生まれ変わりだと信じられてきた)。京都の華やかな「祇園祭」も、本来怨霊を鎮めるための祭りである。
「お天道様はすべてを見ておられる」「一寸の虫にも五分の魂」「触らぬ神に祟りなし」…。八百万の神の発想といい、御霊信仰━非業の死を遂げた人の霊を祭り、鎮め、さらに守護神として礼拝する発想等々。特に、怨霊の荒ぶる魂を鎮め、祀り、それを、なんと守護神にまでしてしまう発想と包容力、柔軟性、魂への「畏敬」には、驚くべきものがあると思う。
今、アニメ『鬼滅の刃』が、世界で圧倒的人気と支持を得ている(日本映画史上初の全世界興行収入1000億円突破)。その理由の一つが、普通の人間が鬼にならざるを得なかった悲しみが語られ、魂の救われるところまで、繊細に描かれている点にあると私は思っている。
武士道と慈悲の物語なのだ。昔、世界を感動させた『七人の侍』も、強きをくじき、弱きを助ける武士道の物語だった。日本文化の底流には果てしなく深い智慧と力が眠っている。
今、それが呼び覚まされる時が来ているのだと思う。時代と世界が、日本文化と日本の心、深い情緒を求めている衝動を感じてならない。
2025/11/25



Comment
天海は、家康の霊廟である日光東照宮の建設を主導し、その位置を宇宙の最高神を表す北極星の方角に配置しました。
江戸城から北極星までの線上に日光東照宮を置くことによって、そこに「北辰の道」と呼ばれる宇宙の中心軸が形成され、天海は、そのエネルギーを江戸に送って、北から江戸を守護しようとしたと言われています。
今月のNATURE通信は、日光の中禅寺湖の湖畔からお届けしましたが、天海=日光つながりで、Akiraさんと意識がシンクロするとは思いもよりませんでした。
天海が、江戸・東京の土台を創った叡智。そして、怨霊の荒ぶる魂を鎮め、祀り、それを守護神にまでしてしまう発想と包容力、柔軟性、魂への畏敬。Akiraさんが注目した日本文化の底流に眠る深い智慧と力が、現代に呼び覚まされることを私も切に願っています。
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