縁友往来Message from Soulmates
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メディテーション

師匠の斎藤眞諦老師に勧められて、キャンパスが駒場から本郷に変わった時、東京大学仏教青年会の本部を訪ねた。事務の方に挨拶をしていたら、急に外がザワザワしてきて秋月龍眠老師(故花園大学教授)と山崎慈耕禅士(現高林寺住職)が入ってこられた。来週から座禅会を始めるので、その打合せに来られたとのことであった。
龍眠老師は学生の私を見つけて、「毎週火曜日に一般公開の座禅会を始めるので、学生の世話役になってくれないか」と尋ねられた。私はキョトンとして聞いていたのだが、他に学生世話役がいないとのことだったので、お引き受けすることになった。
翌週の火曜日から、本郷三丁目の日本信販ビル7階にある東大仏青座禅室で座禅会が開催された。私は少し早めに座禅室に入って、慈耕禅士の指導を受けながら、畳間を掃き、座布団を並べ、香を焚き、茶礼の準備をした。午後7時になると木魚を叩きながら般若心経を読経し、玲を鳴らして、座禅を始めた。40分ほど皆で座ったころに、龍眠老師が登壇され、『無門関』や『臨在録』、『六祖壇経』、『碧巌録』など禅の古典を題材に提唱が行われた。
龍眠老師は、当時次々と禅の書籍を上梓されており、時々地方での講演のため、来られないことがあった。この時は竹村牧男居士(現東洋大学名誉教授)がこられ、代講された。月に一回は寺山旦中居士(故二松学舎大学教授)も来られ、筆禅道を指導された。
この東大仏青座禅会の直日(じきじつ)を五年間務めた。これが私のメディテーション(瞑想)との出会いである。私が直日を務めることになったことを知って、眞諦老師は禅を教えてくれた。禅には禅定の深まりに応じて、一禅から九禅まであり、最後の九禅が涅槃寂静であると教えてくれた。眞諦老師の場合、どうも瞬時に想念が一つも起こらないエンプティ・スペース(無心)の境地に戻れたらしい。「心を心で観る」ことが、禅の根本であると教えてくれた。
東大仏青座禅会では、禅の初心者に「数息観(すそくかん)」を教えていた。数息観は、呼吸に集中する瞑想で、まず息を吸って吐く時に「一(イーチ)」と数える。次に息を吸って吐く時に「二(ニー)」と数える。同様に「三(サーン)」、「四(シー)」と数え、十まで数えると、また最初の一に戻って、これを繰り返す瞑想である。
大変簡単な瞑想なのだが、これを実践してみると、初心者は十までなかなか数えられない。これは途中で雑念が起こり、その雑念に注意が引かれてしまい、いくつまで数えたか忘れてしまうためである。十まで問題なく数えることができるようになれば、瞑想による覚醒力が少し身に付いたことになる。呼吸を数えることで、心の散乱を収め、覚醒力を高めていく瞑想法である。
整体師の杉本錬堂先生は、「自然に呼吸ができるようになると、一呼吸の時間が長くなり、一呼吸が一分以上になる」と語っておられる。アッチャラヤ(阿闍梨)のラビ(Ravi)先生は、「自然な呼吸とは、赤ちゃんの呼吸のように腹、丹田を使った呼吸であり、吸う息をお臍の下の丹田まで深く吸い込むようにすると、自然に一呼吸が長くなり、瞑想が深まる」と教えてくれた。
数息観がマスターできたら、「覚醒意識で心を観る」瞑想を始めることになる。この瞑想について、OSHO(和尚)は、次のように解説している(OSHO、星川淳訳『存在の詩』)。
まず第一に、覚醒意識で心を観始めると、心という一つのまとまったものは存在せず、心は個々の想念が次々と流れているいる過程にすぎないことに気付く。想念と想念の間にはギャップがあるのだが、想念の流れが速いため、一つのまとまった心が存在するように錯覚していたことに気付く。覚醒力が高まるにしたがって、想念の流れは遅くなり、想念と想念の間のギャップが拡大していく。
第二に、この想念は外から入ってきて、暫く留まって、そして外に出ていくことに気付く。観ている自分と想念とは別であることに気付く。覚醒力が高まると、外から入ってくる想念の数も次第に減ってくる。
第三に、想念は自分とは別のものであり、想念も物質と同じようなモノであることに気付く。モノなので、他者の想念を受け取ることができるし(テレパシー)、また物質と同じように想念を投げつけることもできる。
第四に、このように瞑想が深まって、「無心」を学び始めると、心の散乱による内的エネルギーの消耗が止まり、瞑想者は思考エネルギーを蓄積するようになり、念力が強くなる。このため東洋では、「無心」を学び始める前に、瞑想者の人格からネガティブな性質を浄化することが強調される。念力は人々に祝福を与えることができるが、場合によっては、黒魔術にも使えるからである。
以上が、OSHO(和尚)による解説である。「覚醒意識で心を観る」瞑想に慣れてくると、同じような方法で、今度は「覚醒意識で感情を観る」瞑想に入っていくことができる。ここでも自分と感情の流れが別であることに気付く。さらに「覚醒意識で生体エネルギーを観る」瞑想に入っていき、自分と生体エネルギーの流れも別であることに気付く。
このような瞑想の実践を通じて、本来の自分は、身体でも呼吸でも、心、感情、生体エネルギーでもなく、それらを超越している覚醒意識であることに気付く。この覚醒意識を禅では「本来の自己」、「無相の自己」と呼んでいるようである。この覚醒意識は、生死も超越している。すべてが無常な中に永遠なものを見つけたことになる。
以上がメディテーションについての現時点での私なりの見解である。もし眞諦老師がご存命なら、この見解にはたして印可を与えてくれるだろうか。
メディテーションに関しては、私の教え子のパンディ(Pandey)夫妻が事務局を務めて、隔週土曜日にZOOMによる「日本瞑想セッション」を開催してくれており、私も参加している。毎回インドやネパールのアッチャラヤによる講義と瞑想実践の指導が行われている。毎回のセッションは録画され、ユーチューブで配信されている。もしメディテーションに関心のある方がおられたら、一度覗いてみてもらいたい。下に一つのサンプルを掲示しておく。この日のセッションのテーマは、”The Light Within(内なる光)”であった。
2026/1/26



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