愚老庵愚老庵

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桜花考

流水

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中川 光弘 香川県に生まれる。 東京大学農学部農業生物学科、農業経済学科卒業。博士(農学)。 農林水産省アメリカ・オセアニア研究室長を経て茨城大学農学部教授。 現在は茨城大学名誉教授、東京日野国際学院副校長。
桜花考

長く厳しかった冬の寒さが和らいでくると、日本各地ではまず早生の河津桜が咲き始める。次いでソメイヨシノ、八重桜の開花と続いていく。日本では桜は何といっても春の到来を告げる代表的な樹木である。中国から移入された梅とは違って、桜は日本に原生していた山桜から育生された日本の国花である。

桜には自家受粉を嫌う性質があり、そのために他家受粉が進んで多くの品種が生れたと言われている。日本で最も多いソメイヨシノは、接ぎ木で増やされ、全国に普及した園芸品種である。

花が散った後にはサクランボが果実するが、このサクランボは「果物の宝石」と呼ばれ、栄養が豊富である。鉄分、カリウム、ビタミン類、ポリフェノールが豊富で、疲労回復、貧血・冷え性の改善、アンチエイジング・美肌効果、睡眠の質の向上などの薬効が知られている。

昔の日本語では「さ」は稲の精霊を、「くら」は精霊が降臨する場所をさす言葉で、これが組み合わさって「さくら」になったと言われている。弥生時代から日本の山里では、桜の開花を待って稲作の作業が始まった。桜の木に宿った精霊(田母神)に見守られながら、村の稲は生育し、秋には収穫されて我々の命をつないできた。村々の田宮の境内には、桜が植えられ、江戸時代には庶民のお花見も普及した。

先日、NHK・BSで藤沢周平原作の映画『山桜』が放映されていた。荘内平野の山桜の下で邂逅した野江と手塚弥一郎の恋物語だが、若い二人の生き方を山桜が象徴していた。山里でひっそりと咲く山桜の凛とした静かな気高さと、命の循環性、二人の誠実な生き方が見事に共鳴する映画だった。

野江の母親の「あなたは少し回り道をしているだけですよ」との言葉と、弥一郎の母親の「でも私は、いつかあなたが、こうしてこの家を訪ねてみえるのではないかと、心待ちにしておりました」の言葉から、若い二人の生き直しが予感され、心の洗われる作品だった。

春の到来とともに一斉に咲いて、美しさの頂点で潔く散る桜の姿は、命の儚さと無常、自然の循環性を感じさせ、日本人の「もののあわれ」の美意識を醸成させたであろう。

私は茨城県の土浦市に住んでいるが、土浦近隣には桜の名所が多い。土浦には終戦まで東洋一の飛行場を誇った霞ヶ浦航空隊があり、「桜と錨」が海軍の象徴だった。

私が勤務した茨城大学農学部は、戦後に霞ヶ浦航空隊の跡地に創設された経緯がある。農学部の前庭には、海軍旗の掲揚台が今も残されている。このこともあって私の恩師の平野綏先生が中心になって長い桜並木が整備され、夜はライトアップされて、幻想的な風景が醸し出だされている。

また近くには自衛隊の武器学校があり、ここも春は桜の名所となっている。この校内の片隅に「予科練祈念館」があり、先の戦争で散華した若き搭乗員たちの遺品が収められている。

満開の桜の頃初めて予科練祈念館を訪れた。搭乗員たちの遺書や遺品を見て廻ったが涙が止まらなかった。祈念館を出ようとしてふと出口の左上を見上げたら、特攻隊の生みの親で、おそらく搭乗員から最も憎まれたであろう大西瀧治郎中将の遺書が掲げられていた。これを見た瞬間なぜか号泣してしまった。大西中将は終戦翌日に切腹されたが、その数時間前に書かれた遺書には、文字の乱れはまったく無かった。

私の先輩に霞ヶ浦航空隊OBの大村さんという方がおられた。戦友たちとともに航空隊の面影を求めて農学部を見に来られた際、偶然キャンパスで再会したことがある。霞ヶ浦航空隊と予科練出身の搭乗員たちは、特に終戦の年に多く散華している。予科練出身者の実に三分の一が特攻で亡くなっている。

この大村さんが、「夜桜の下を歩いていると、桜は怖い木だと感じる」と語られたことがあった。今はもう亡くなった先輩に、この言葉の真意を確かめることはできないが、散華した同期の桜を偲んでの言葉だったのだろうか。

2026/3/25

Tags:メッセージ

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