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愚老庵ノートSo Ishikawa

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食の世界に道を求めて

食の世界に道を求めて

日本で暮らす私たちは今、人類史上稀に見る「美食の時代」を謳歌しているのではないでしょうか。

世界中の食材と料理が日本に集結してその美味しさを競い合い、日本の「和食」は、食の新体験を求めるインバウンド客を世界中から引き寄せています。

テレビには、ご当地グルメを求める食べ歩き番組が溢れ、SNSには膨大な量の飲食店の情報と料理の写真が飛び交い、人々は競って話題の店に行列をつくります。

食欲や味覚を満足させるための「モノ」の消費から、食の体験や楽しみを共有するための「コト」や「トキ」の消費へ、日本の「食」をめぐるトレンドは今、大きく変わろうとしています。

一年ほど前、大手の回転寿司チェーンが近所に出店しました。いつも行列待ちができているのですが、たまたま入れそうだったので、最新の回転寿司を体験してみることにしました。

機械の音声ガイダンスで席に誘導され、タブレット端末でメニューを開いてみて驚きました。ラーメンやうどん、唐揚げやたこ焼き、スイーツからデザートまで何でもあるのです。まさに「回る食のテーマパーク」という感じでした。

伝統的な鮨を知らない子供たちやインバウンド客にとって、ここは食のエンターテインメントをコスパ良く体験できる、とても楽しい場所なのではないかと思いました。

しかし、私のように「鮨を食べたい」と思って来店した老人は、「店を間違えてしまった」という違和感を抱くかもしれません。

昭和の時代にあった街のお寿司屋さんは、回転寿司と宅配寿司のチェーンに駆逐され、次々と姿を消してゆきました。今、伝統を受け継いだ江戸前の寿司を握ってもらおうと思ったら、高級寿司店に行くしかなさそうです。

半年ほど前、食通の犬友に誘われて、高級寿司店に行く機会がありました。そこは、ご主人が一人で切り盛りしているカウンター7席の小さな店で、お任せのメニューしかない落ち着いた雰囲気の店でした。

席に着くと、吟味された旬の食材を使った料理と鮨が次々に出てきました。そして、食材を引き立てようとするその調理の仕方が何とも「優しい」のです。久しぶりに「食」の世界で、深い感動を体験をさせてもらいました。 

無駄な装飾を一切削ぎ落とした清楚な店のしつらえ、ご主人のさりげない心配りが醸し出す雰囲気、これらが一体となって「優しい美味しさ」をつくり出していて、私にはそれが何とも心地よく感じられました。

食べ物であれお店であれ、その「美味しさ」には、それをつくった人の「想い」が宿ると私は考えています。そして、そこに浮上してくるのは、「何のためにそれをつくっているのか」というつくり手の「動機」です。

私たちは普段、見た目の美味しさや、口当たりの良さなどに惹きつけられて、それをつくり出しているつくり手の「動機」には、なかなか気づけません。しかし、私たちは五感を超えた世界で、その気配を感じているはずなのです。

拡大する回転寿司のチェーン店の料理には、いかにして効率よく利益を上げるかというビジネスの「匂い」がします。そして、有名な高級寿司店の鮨には、いかにして暖簾のブランド価値を高めるかという「匂い」が漂っています。

食通の犬友が連れて来てくれたこの小さなお鮨屋さんには、「旬の自然の恵みをお客さんに味わってもらいたい」「お客さんとの出会いと縁を大切にしたい」というご主人の想いが溢れているように感じました。

店を大きくして人を増やせば、どうしても目が行き届かなくなって、自分が思っているようなサービスが出来なくなります。従業員の給料を払うために、売り上げを増やす算段をし始めると、大切にしているものが失われるリスクが大きくなります。

ご主人が何故、店を大きくせずに一人でこのお店を切り盛りしているのか、業界は違っても、私も同じような悩みを抱えて動画をつくってきたので、そのことが痛いほどよくわかります。

鮨という食の世界で、このような純粋な想いとサービスを貫いている方と出会えたことが、私には何よりも嬉しく、その「動機」が、私の心に感動を呼び起こしたのかもしれません。

私は、いわゆる食通ではありません。むしろその反対で、どちらかといえば「現世の快楽」を避けようとする心の傾きを持っています。

私の妻は美味しいものに目がありません。妻といい食通の犬友といい、何故か私の周りには、美味しいものを愛する人達が居て、この世の様々な「美味しさ」に、私を出会わせてくれるのです。

数年前、妻がネットで検索した知る人ぞ知る「究極の鮨屋」と言われている店に行ったことがあります。ここも、お任せのメニューしかないカウンター10席ほどの小さな店でした。

こちらのご主人は、築地の卸市場で魚の目利きを徹底的に学んだ後、銀座の著名な鮨屋で修行されたそうで、魚に造詣が深く、その食べ方を語らせたら止まらなくなってしまうという方でした。

そこで出された刺身と鮨は、衝撃的な美味しさでした。この鮮烈な味は、魚の食べ方を知り尽くし、最高の食材を仕入れるルートを持っているからこそ提供できる究極の味ではないかと思いました。

しかし、その美味しさは、どこか「とんがっている」のです。次々と出される料理と饒舌な解説、それはアーチストが、自分の創り上げた作品の素晴らしさを、ファンに披露しているかのように、私には感じられました。

このパフォーマンスを愛するファンにとっては、それがたまらないのでしょうが、私にはあまり居心地のいいものではありませんでした。

それは、この「とんがっている」感じが、私が独立して動画づくりを始めた頃の苦い記憶を呼び起したからなのかもしれません。

その当時の私は、自前のスタッフとスタジオで、納得のできるクオリティを求めて、寝る間も惜しんで動画づくりに没頭していました。それは自分の「仕事」を世間に認めてもらいたかったからだと思います。

しかし、賞賛と評価を得られても、そこに「心の安らぎ」はありませんでした。それは、その動機が「自分のため」だったからです。

人類の未来を予知する書として知られている、アメリカインディアンの「ホピの書」は、魂を失った現代人の姿を、頭部のない人間として描いています。

コマーシャリズムに支配され、目の前の成果と効率が優先される現代社会では、「何のためにそれをつくるのか」という動機は問われません。

結果が良ければすべて良しとされる社会では、私たちの関心は、どうしても「どうやって結果を出すのか」という目先の方法論に向かってしまいます。

しかし、つくられた「もの」には、それをつくりだした人の「想念エネルギー」が宿っていて、その波動が見えないところで私たちに大きな影響を与えているとしたらどうでしょう。

肉体や心の飢えを満たすだけでは満足できずに、魂の飢えを満たそうとした時、私たちは、この想念エネルギーの波動を敏感に感じ取ることができるのではないでしょうか。

「何のために」という問いは、私たちが何かをつくり出す時に、心のどの次元からエネルギーを汲み上げているかを教えてくれます。

人間を動かすのは、自分を守ろうとする恐怖心のエネルギーか、自分という枠を超えて関わる世界を生かそうとする愛のエネルギーのどちらかしかない、と魂の探求者たちは言います。

そして「何のために」を問い続けてゆくと、私たちは、そのエネルギーの源泉となっている「魂の願い」と出会うことができるというのです。

魂が抱くこの「意思のエネルギー」は、生成AIではつくり出すことができません。人間が人間であるために、時代は今、私たちの内宇宙深く眠るこの「意志のエネルギー」の存在とその大切さを、認めざるをえなくなっているのではないでしょうか。

「何のために」という言葉は、肉体の五感によって物質の次元に囚われてしまった私たちが、「本当の自分」を取り戻すためのキーワードになると私は信じています。

今、世界の人口の10%が、飢餓状態にあると言われています。その一方で、「飽食」が地球環境を破壊し、異常気象と戦乱よって、食糧危機が到来すると予測されています。

日本の禅宗、曹洞宗では、自らの命を食材として捧げてくれる動植物に感謝し、食べるという行為を、「命をいただく修行」として、大切にしているそうです。

飢餓と飽食が同居するこの時代に、「何のために」という問いかけが、食の世界に新しい「道」を拓いてくれることを祈ってやみません。

 

今月は「夏の海」をお届けします。
NATURE通信 August 2024 「夏の海」
https://nature-japan.com/cat_nature/aug2024/

 

縁友往来に新しい投稿があります。
「My three stepping stones」
https://grow-an.com/mate/mate-010/
 
「縁友往来」に寄稿される方は、「お問い合わせ」から
庵主にご連絡ください。皆様のご参加をお待ちしております。

 

 

2024/8/26

Tags:NATUREへの道

Comment

  • 石部 顯:
    2024年8月27日

    普段、回転ずし、高級すし店に行ったとき、意識下で何かを感じているのだけれど、そのぼんやりしていた感覚に、石川さんが、言葉と、居場所を与えて下った感じがして、感謝しています。まったく、その通りですね。

    まさに、「詩人の眼は、想像力によって未知なるものに形を与え、ペンを手にするや、明確な形に描き、空なる無に、居場所と名前を与える」(シェークスピア『真夏の夜の夢・第5場』)ですね。

    今回のエッセイ、空即是色、色即是空の物語だと思いました。鮨の作り手の想い=空が、鮨という形=色となって、空即是色。色である鮨を、石川さんのこころが味わって、空(想い)となり、色即是空。「小さなお鮨屋さん」で起きた出会いの奇跡も、真理の通りですね。

    つくられた「もの」には、それをつくりだした人の「想念エネルギー」が宿っていて、その波動が見えないところで私たちに大きな影響を与えているとしたらどうでしょう。

    肉体や心の飢えを満たすだけでは満足できずに、魂の飢えを満たそうとした時、私たちは、この想念エネルギーの波動を敏感に感じ取ることができるのではないでしょうか。

    「何のために」という問いは、私たちが何かをつくり出す時に、心のどの次元からエネルギーを汲み上げているかを教えてくれます。

    今、世界の人は、「魂の飢え」を満たそうとしているのでしょう。だから、Deep Japan、普通の、本当の、日本人に会いたい、と「日本のこころ」を求めてこられているような気さえします。つまり、それは象徴的に、「小さなお鮨屋さん」のこころなのでしょう。

    「何のために」という言葉は、肉体の五感によって物質の次元に囚われてしまった私たちが、「本当の自分」を取り戻すためのキーワードになると私は信じています。

    「何のために」が、深く掘り下げられ、人と人をつないでいる意識の深みまで降りてゆき、そこにある「願い」を掴み、現すとき、そのエネルギ-を感じて人々は癒され、満たされ、至福を感じるのでしょう。 願いは、限りなく彫琢され、リアルに鮮やかになってゆく。そのような道を、ご一緒させていただきたいと願います。


    Akira

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