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愚老庵ノートSo Ishikawa

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「春の海」との対話

「春の海」との対話

コロナ禍は、なかなか終息しそうにありません。ウクライナの戦禍も拡大しそうです。出口の見えない閉塞感の中で「春の海」が見たくなって、房総半島に出かけました。

房総へのロケは昨年の夏、九十九里浜で台風一過のドラマチックな砂浜を収録して以来、半年ぶりです。

同じ撮影スポットで収録しても、季節が変わると、海は全く違う表情を見せてくれます。今回は、風もなく波も静かで、のどかな春の海が目の前に拡がっていました。

「 春の海 ひねもすのたり のたりかな 」与謝蕪村は、春の海をこう詠みました。この句と出会った時に、私たちは、記憶の中にあるそれぞれの「春の海」を思い浮かべます。

幼少の頃に失明した宮城道雄は、記憶の中にある瀬戸内の春の海を思い浮かべながら、琴と尺八の調べで「春の海」を描写したと言われています。

NATUREの「春の海」は、はたしてどこまで見てくださる方の記憶に残ってくれるのでしょうか。

実はこれまで、のどかな春の海をあまり収録していません。それは、風がなく波も穏やかな春の海に、ドラマチックなインパクトを感じられなかったからです。

この40年の間、動画の制作を生業として来たために、動画の強みが生かせない「変化の少ない平凡な題材」を無意識に避けてしまっていたせいかもしれません。

NATUREの世界では、これまでの生業とは一線を画し、動画の未知の可能性を追求しようとしているのですが、身についた習性はなかなか抜けません。

「平凡な風景」を、NATUREでどうやって伝えればいいのか。逡巡しているうちに「撮影した映像に映るのは、ただ相手の姿ではなく、相手と自分の関係が映る」という言葉が浮かんできました。

私の心の中には「インパクトがなければ見てもらえない」「つまらない画を撮ったらプロとして生きてゆけない」という想いがあります。

業界を生き抜くために身につけたこの鎧を脱いで、相手と自分の関係を変えなければ、今回の画は撮れないと思いました。

そのために、まずカメラを横に置き「いい画を撮ろうとする意識」を捨てて、目の前にいる海と対話することにしました。

伸びをして腰を下ろすと、穏やかな波の音に包まれて、優しい時間が流れてゆきます。「あと何回、春を迎えられるのだろう?」 ふとこんな想いが浮かんできました。

終わりがあることを意識した時、見えている世界に対する感じ方が変わります。これまで避けてきた「平凡な風景」が輝き始め、ゆっくりと心に沁み入って来ました。

今、あたりまえのように過ごしている平和な日常が、次々と失われてゆく時代を迎えているように感じます。

人は、何かを失ってはじめて、それがかけがえのないものだったことに気付かされます。「平凡な風景」がどんなに「有り難い」ものであったのか、心を痛打されるのです。そしてその時「平凡な風景」は、懐かしく愛しいものへと変わります。

自分自身が変わることで、NATURE のシーンにも、自然風景との新しい関係が映し出されるかもしれません。

記憶に残していただけるような「平凡な風景」をお届けできるかどうか自信がありませんが、心のリハビリをしながら、チャレンジを続けていきたいと思っています。

 

NATURE通信 Mar.2022 春色の渚
https://nature-japan.com/post_nature/tsushin-mar2022-6/ 

2022/3/17

Tags:NATUREへの道

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