愚老庵ノートSo Ishikawa
ドキュメンタリーをアートする
桜も終わり新緑の季節が巡ってきました。毎回、NATURE通信を視聴してくださっている方から「カラマツの黒い幹に芽吹いた濃く鮮やかな新緑は、他の追随を許しません。自然は多様で美しい」というコメントをいただきました。
残念ながら私はこれまで「カラマツの芽吹き」を作品にしていません。それはこのテーマが動画にしにくいからなのかもしれません。
チャレンジを促されたような気がして、今回は深山の新緑を目指して、乗鞍高原まで足を伸ばすことにしました。
乗鞍は15年ぶり。自然の動画を撮り始めた頃は、毎年のように通っていたのですが、このところずっと足が遠のいていました。
カラマツ林を彩る鮮烈な新緑の芽吹き、透過光に輝く新緑の白樺林。15年ぶりの乗鞍には、五月晴れの眩い風景が広がっていました。
カメラのファインダーを覗くと、絵画のように美しい画が写っています。しかし、この画には全く「動き」がないのです。
フレームの中には、新緑を揺らす風も日差しの変化もありません。これでは「生命のリズム」を伝えることができません。
一時間ほど待って見ましたが、状況は変わりません。絶景を目の前にしながら指をくわえて見ているしかない口惜しさで、気力を失いそうになりました。
NATUREの収録では、時々このようなことが起こります。心が折れそうになった時、私には実践しているルーティンがあります。
まず、目を閉じて見えている世界を遮断し、深呼吸します。そして「何のために収録しているのか」という最初の目的を思い出すのです。
NATURE収録の目的は、「心の旅に出るための動画を届けること」「今撮ろうとしているシーンは、その手段のひとつ」「このシーンがダメなら、今撮れる他のシーンを探せばいいじゃないか」そう自分に言い聞かせることにしているのです。
このルーティンによって、目の前の画づくりに集中していた「意識」を解放することができます。そして解放された「意識」には、フレームの外の世界が一気に流れ込んできます。
すぐ近くを流れている小川のせせらぎの音が聞こえてきました。何とも気持ちのいい響きです。「そうだ、この先にある渓流に行ってみよう」そんな思いが湧き上がって来ました。
「動き」を求めて近くの渓流へ降りてゆくと、そこには陽光と水の流れが造り出すアブストラクトな「ゆらぎの世界」が待っていました。
何とここで、「光のゆらめき」との感動的な出会いがありました。このテーマには、これまで何度もチャレンジして来たのですが、なかなか「これは!」というシーンが撮れていませんでした。
狙った新緑を撮ろうとして撮れず、思いもよらず、ずっと撮りたかったシーンが撮れてしまう、これが NATURE収録の醍醐味でもあるのです。
NATURE通信 May.2022 光のゆらめき
https://nature-japan.com/post_nature/tsushin-may2022-5/
自然は自分の思い通りにはなりません。だからこそ面白いのです。
スタジオでは、美術セットをカメラワークに合わせて配置し、照明を駆使して自分の思い通りのイメージを創り上げることができます。しかしそこでは、自分のイマジネーションが創作の限界になってしまいます。
NATUREの収録では、自分では想像もしていなかった、人間の技をはるかに超えた神秘的なシーンと出会うことができます。「動き」という要素が入ると、自然はさらに奇跡のような「神技」を見せてくれます。
このシーンを造り出すのは「自然」であり、私ではありません。私にできることは、そこに流れる「生命のリズム」を抽出し、記録することだけです。
自然は刻々と変化します。神秘的な変化は、収録の準備が整うまで待ってはくれません。チャンスを逃さないように「収録の心技」を磨くこと、それが唯一私にできることです。
NATUREの極意は「ドキュメンタリーをアートする」ことにあると思っています。
魂を揺り起こすようなシーンとは、いつどこで出会えるかわかりません。出会えることを信じて、どんな状況にあってもあきらめずに収録を続けること。そして、いつどんなシーンと出会ってもいいように、準備を怠らないこと。それが今、NATUREを収録する時の私の作法になっています。
今回は、「カラマツに新緑」のシーンをお届けできませんでしたが、いつか巡り会えることを信じて、NATURE行脚を続けていきます。誠に申し訳ありませんが、しばし時間をいただければと思います。
2022/5/23
Comment
乗鞍行きたくなりました!
石川さんの作品NATUREには、二つの力があると思いました。
1.真情━「懐かしい喜びの世界」(岡潔)を思い出させる。
2.心の深くから湧き出る、瑞々しいいのちの泉を引き出す。
本作が届けられた日に、同時に、一冊の小冊子が届きました。岡潔著『情と日本人』、送り手は、竹村牧男先生(仏教学)です。
岡潔は、数学の世界の「三大難問」を一人で解き、湯川秀樹にも深い影響を与えた数学者であり、思想家、教育者です。
最新の心理学、脳科学では、思考は大脳皮質など脳の浅い部分が活動するが、「ひらめき」直観は、脳の深く、大脳基底核が働いていることが分かりました。さらに、最近流行のマインドフルネス(瞑想・呼吸法)は、脳の中心の視床下部・松果体(自律神経・心情に影響するホルモンの分泌を司る)や、感情・情緒に関わる扁桃体に直接よい影響を与えることなども分かってきています。「情」が豊かに育つことが、脳の発達にも、直観力、知性の豊かな発達にも直接よい影響を与えることは明らかです。今後、「情」(があっての「知」)の重要性を指摘する岡潔の直観と予言を裏付け支持する科学的証明は、増えてくるものと思われます。
石川さんの作品と響き合う、岡潔の思想の断片と感想を、贈らせていただきます。
・わかるのは、最初、情的にわかる。情的にわかるから言葉というものがあり得た。形式というものがあり得た。それから先が知。その基になる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。人は情の中に住んでいる。
━まず情が基としてあり、情でわかり、そして知がついてくる。この順序が、歴史、数学、語学、化学・物理等すべての教育・学習法において、否、人生のすべての「道」の修行・習得において重要であり、心理学の法則から見ても真理にかなっていると言えます。情動が生まれる、すなわち「感動」(魂が動くこと)があって初めて、知(思考、理性・知性)が十全に働く。でなければ、「上滑りな」知で終わる。
・人の本体は情である。湧き上がる水のごとく絶えず新しいものと変わっている。大宇宙は一つのものではなく、その本体は情。情の中には時間も空間もない。生きるということは、生き生きすること。情は濁ってはいけない。また情緒は豊かでなくてはいけない。教育はそれを第一の目標とすべき。でなければ知はよく働かない。
━仏教に「菩提心(=真情・願い)を因と為し、悲(=真情・慈悲)を根本と為し、方便(=知<言葉>・智慧)を究竟と為す」(大日経)とあります。真情(願いと慈悲)を忘れた仏教も哲学も教育も、冷たい知、上滑りの知、惰性の知となり、生命力を失い救済・教育本来の力を喪失せざるをえない。日本の教育が陥る危機の本質がここにある。
・見極めないから存在まで行かない。見極めるには自分で情を働かせなければ。自分の情を動かす。自分で見極めなければいけない。
━日本の武道、茶道、仏道、あらゆる「道」の極意として、「見える」「見切る」境地が説かれます。「自分で見極める」ことにおいて徹底しなければ、いつまでたっても他人からの借り物の知識・技で右往左往し、井の中の蛙で終わります。修行の段階として、「守破離」がありますが、破と離に行くためにも、岡潔のこの言葉は求道の指針となると思います。
・情の世界は、「懐かしさと喜びの世界」。青年ぐらいまでずっと「懐かしさと喜びの世界」に住むようにするのが家庭教育です。
━自然の美しさ、人の行為の美しさに感嘆し、我を忘れる喜びを全身で味わった子供の心を、私もいつまでも忘れたくないと思いますし、子供たちのこころを守り育てたいと願います。「さまざまなこと 思ひ出す 桜かな」(芭蕉)━まさに岡潔の言う通り、「懐かしさ」、人生の悲しさも知った上での「喜び」ですね。
・世界を救う道は、結局は情が人であることを教えることです。「岡潔のとらえた世界の実相」:感情=自分がうれしい、自分が悲しい。真情(日本の心)=人と自然の喜びを喜び、悲しみを悲しむ。競争心=人に勝って自分が喜ぶ。向上心=自分に勝って人を助ける。
本当の意味で、情を育む、「懐かしい喜びの世界に回帰する」ためのよすがとして、石川さんの作品は、時代が求めるものであり、後世に遺る作品だと思います。
お気遣いありがとうございました。
仰せのとおりカラマツ林に揺れる風はありません。鳥のさえずりもまだ遠いです。
朝陽に当たる露を含む鮮烈な新緑は自然の豊かさで人を包み込んでしまいます。瞑想・坐禅と一体です。人は自然と一体なので喜び・安堵が生まれるのかもしれません。また 動画での限界もいつか変わるのかも知れません。
でも目指しているものが同じですので ある時フッと 腑に落ちる瞬間が訪れるでしょう。期待してお待ちします
皆さんのcommentが素晴らしいですね!
私には言葉が出てきませんが、ただ感じます!
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