愚老庵ノートSo Ishikawa
撮影した映像に映るもの
NATUREの収録に出かける時、心がけていることがあります。それは、収録しようとするシーンを共有してくれる人たちを思い浮かべることです。
そうすることで、心の中にいる人たちと一緒に収録を行うのだという「コラボ感覚」が生まれてきます。
NATUREの収録は、一人で自然と向き合う孤独な作業に見えるかもしれませんが、私の中では一人という感覚はありません。
思うようなシーンが録れなくて心が折れそうになった時、NATUREを共有してくれる人たちのことを想うと、不思議とエネルギーが湧いてきます。
最近では「あの世」にいる見えない世界の人たちを思い浮かべることも多くなりました。
肉体を持たない人たちが、モニターに映し出されたシーンを見ることはできないと思いますが、私の心に映った映像や想いは、きっと伝わっていると思います。
先日、皆既月食を撮影した時も、見えない世界からの通信メッセージを感じて、その日だけでなく翌日も撮影を続けました。結果は、NATURE通信でご覧いただいた通りです。
側で見ていると理解不能な「あぶない爺さん」に見えるかもしれませんが、「見えない世界とのコラボ」が、最近の私の収録スタイルになっています。
NATUREの収録スタイルを模索している時に、影響を受けた本があります。ドイツの哲学者、オイゲン へリゲルが遺した「弓と禅」という本です。
この本は、アップルの創始者、スティーブ・ジョブズの生涯の愛読書ということで、世に広く知られているようです。
大正時代の末期から昭和の初め頃、ヘリゲルは、東北大学に招聘されて教鞭を執る傍ら、弓道の師範に師事して、何年もの間、弓の修行に励んだと言われています。
修行を始めた時に、師範から「自分ではないものに弓を引かせよ」という指導を受け、その意味がわからず悩んだそうです。
師範の言う「自分ではないもの」とは何なのでしょう?
それは「自我を滅し宇宙と一体になった無我の境地」ということなのでしょうか。
言葉にするのは簡単ですが、実際にこの境地を体験するのは至難の業だと思います。
NATUREを収録している時、一瞬の間、この世界を垣間見させてもらうことはありますが、残念ながら、私はまだこの境地に到達することはできません。
「自分」とは何なのでしょう? 自分の肉体、自分の魂、どこまでが自分なのでしょう?
私たちは日々、肉体が「自分」だと思って生きています。「この世」を生きてゆくために身につけたこの「自分」という自我意識が、自他を隔てる境界線をつくり出しているように思えます。
私たちは、様々な関わりの中で生きています。魂の世界では、自分と繋がっているその関わりのすべてが「自分」なのだと、覚者たちは言います。
心で想えば、どんな世界とも繋がることができます。どこまでが自分なのか「この世」でその境界を決めているのは、自分の意識なのかもしれません。
他者を想い、他者との一体感を感じた時、「自分」という境界は広がり、「自分ではないもの」に近づくことができるように感じます。
「自分ではないものに引かせる」ために、今の私にできること、それは心の中にいる人たちと一緒に「弓を引く」ことではないかと思っています。
先はまだまだ遠そうですが、いつの日か、心が宇宙大に拡がることを信じて、私もNATURE修行を続けたいと思っています。
この話はこれで終わりではありません。師範はヘリゲルに、さらに難解な修行を命じました。それは「的に当てようとせずに当てよ」という修行でした。
目的を定めてそこに意識を集中すると、周りが見えなくなってしまうことは、よくあります。しかし、的に当てようと必死になっている時に、そんなことを言われたら、どうしたらいいか分からなくなってしまうと思います。
「的に当てようとせず当てよ」とは、どんなことを意味しているのでしょう。
弓道の目的は、ただ目の前にある「的」に矢を当てることではなく、修行を通して宇宙と一体になった無我の境地を会得すること。師範はそのことを伝えたかったのかもしれません。
NATUREでは、目に見える自然の風景を「的」にしなければなりません。「生命のリズム」に命中するように矢を放つのですが、なかなか当たってくれません。
自然は自分の思い通りには動いてくれないのです。農業や漁業などで自然を相手に生きている人は、そのことを身に沁みて感じていると思います。
「自分は自然の一部であり、目に見えない大きな世界に生かされている」心の底からそう感じた時、見えている世界が一変します。
「自然を畏敬し、自然を受け入れ、自然と共に生きる」
日本の伝統文化の世界で「芸道」を極めようとした先人達も、目の前の結果に一喜一憂しながら、この「境地」を目指したのではないでしょうか。
「道」を求める人たちに、魂を揺り起こす「生命のリズム」を届けられるように、私も「当てようとせずに当てる」修行に励みたいと思います。
最後に、もうひとつお伝えしたいことがあります。
デジタル化されたカメラや録音機材の性能は今、一昔前には考えられなかったほど進化しています。軽く小さく、安価になった機材は、人間の眼を超える鮮明な解像度で、あらゆる世界を映し出します。
明るさやピントを気にすることなく、誰にでもそこそこ綺麗な映像が撮れ、その画像を簡単に修正、加工することもできてしまう時代になりました。
「とりあえず撮っておけば何とかなる」「無理に当てようとしなくても、そこそこ当たってしまう」それが今、撮影のトレンドになっています。
このような時代だからこそ、NATUREの収録には、「的」に当てようとする意思と覚悟が求められるのです。
「的」に当てようとした途端に、目の前に様々な困難が立ち上がってきます。そして、その意思が本物かどうかが試されます。
それを乗り越えて、真剣に的に当てようとするからこそ、「自分ではないもの」の存在を知り、「当てようとせず当てる」という境地に近づくことができるのではないでしょうか。
撮影した画像には「撮った本人」も映し出されます。何のために、どんな気持ちで、何を撮ろうとしたのか、そこには撮った人の境地が、そのまま映し出されるのです。
NATURE には「とりあえず」と「そこそこ」はありません。これからNATURE を撮ろうとされる方は、何のために、何を撮ろうとしているのか、「的」をしっかり定めていただきたいと思います。
撮影するという行為の中に、自らの境地を深め、見えない世界と繋がる「道」が存在していることを体感していただきたい。そして、映像と一緒にそこに映る「境地」を、見る人たちに届けていただきたい。心よりそう願っています。
2022/12/23
Comment
今回、12月の映像を観て、またエッセイを拝読し、「色即是空 空即是色」の言葉が、心に浮かびました。
水、氷、雪、水蒸気……、水の本質は変わらず、千変万化する姿形、空中の見えない水滴も含め、自然の摂理、循環の力と理のままに動き、森羅万象の生命を支え、生かし、養っている。
「上善水のごとし」、優れた善は、水のようなものだ、と昔の人は言いましたが、自然そのものから真理を学ぶ力があったのでしょう。
古神道を遡れば、1万五千年以上も続いた縄文時代にすでにあった━
自然の背後に、大いなる存在(神と呼ぼうが、仏と呼ぼうが結構)を感じ受けとめ、敬い、自らも、先祖もまた大いなる自然に生かされ、その一部であり、やがて肉体は地に帰るが、魂は、あの世に帰り再び生まれてくるという思想があったことが分かってきています。
非常に高度な文明が、縄文時代にあり、長く平和で調和した世界を形作っていた。その時代と文化が、日本人の意識の基底を形成しているという説があります。心理学的にも、納得がゆきます。その精神的土壌は、きわめて受容力があり、その後、仏教、儒教、西洋文化等、様々な異質な文化を受け容れ、洗練し(よくないものは捨て、よいものは取り入れ)、日本独自の高度な文化へと昇華・創造する力がある。そこにこそ、日本人の一つのオリジナリティがあると思っています。
色即是空、空即是色(空は、見えないこころの世界。色は、見える形の世界)━こころの世界も、自然を含むこの世の世界も、空から生まれ、空そのものである。
石川さんが、撮影に向けて準備される、その空が、結果としての作品という形、色となって現れる。映像という色を観て、私たちの空(こころ)は影響を受け、色は空となり、一つに融けて響き合う。まさに色即是空、空即是色ですね。
突然ですが、今回の石川さんのエッセイを拝読し、日本海海戦を戦った佐藤鉄太郎参謀の話が思い出されました。なぜ、世界史に前例のない、完璧なる勝利を収めることができたのかと聞かれ、彼は、6割は、運による、と答えます。では、あとの4割は何か? と問われ、4割も運である、と言う━。6割の運は、純粋なる天祐である。あとの4割は、人間の努力により引き寄せられた運である、と答えたというのです。
東郷平八郎、秋山真之が書いた報告書もまた、冒頭、「天佑神助により」勝つことができた、という言葉から始まります。この何か「動いているもの」を、感じる感性が、当時の日本人には強くあったのでしょう。弓を、「引かせるのではなく、引いていただく」━。引いてくださるものに対する、畏敬と感謝、確信があった。自然の姿を通して、この感謝と畏敬の想いを、日本人が、いや世界の人が思い出すことを、願ってやみません。
石川さんが撮影に臨まれる準備━意識において、技術において、絶えず探究、深化されることがなければ、決して良いものは生まれないのでしょう。それは、どの仕事でも、同じだと思います。
いつも素晴らしい自然の映像、ありがとうございます。日々、日本から、美しい自然が消えゆく現在において、未来に残る、意義ある創作であると思っております。
石部 顯 拝
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