愚老庵ノートSo Ishikawa
「命の輝き」Part 2
今年もクリスマスの季節が巡ってきました。コロナ禍のリベンジ消費で賑わう街を歩いていると、チャールズ・ディケンズの小説「クリスマスキャロル」のことが心に浮かんできました。
クリスマスの日に、強欲な守銭奴スクルージが精霊に導かれ、過去・現在・未来を旅する超常的な体験を通して「命の輝き」を取り戻すこの物語を、憶えていらしゃる方も多いと思います。
戦乱や気候変動など何処吹く風、自分さえ良ければいいという物欲と快楽が渦巻く巷に、クリスマスキャロルのような奇跡が起きることはないのだろうか、ついそんなことを考えてしまいました。
先月からずっと、人間の「命の輝き」について考えています。「命」とは肉体だけに存在するものではなく、そこに魂が宿った時にはじめて「命」になると私は思います。
若い頃は、肉体が「命」を輝かせてくれます。しかし、この輝きは歳を重ねるにつれて失われてゆきます。いくらアンチエイジング技術が進んでも、こればかりはどうにもなりません。
肉体が輝きを失ってしまった時、「命」を生き生きと輝かせるにはどうすればよいのでしょう。それには魂の力を借りるしかありません。
「生きる」という映画で、余命宣告を受けた主人公は、生きる意味を自らに問い、魂の願いに立ち還ることによって、残された「命」を輝かせました。
この世を生きてゆくためにつくりあげた「仮面」を脱ぎ捨てて、本当に大切なもののために生きようとする時、人の「命」は輝きます。
それを邪魔するのは、地位、財産、名誉などの既得権益への執着です。自分の身を守るために築き上げた「自我」の厚い壁が世界との繋がりを遮断し、魂はこの安全な牢獄の中で輝きを失うのです。
以前、母親がお世話になった老人介護施設のスタッフから、「既得権益とプライドを持った入居者ほどケアが難しい」「ただの年寄りになれれば、もっと明るく楽しく生きられるのに」という言葉を聞いたことがあります。
「富める者が神の国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」という聖書の言葉は、やはり真実なのかもしれません。
老いは、富める者にも容赦なくやってきます。若さを失い、他人の力を借りなければ生きてゆくのが難しくなってしまった自分を受け入れるのは、本当に情けなく耐え難いことかもしれません。
しかし、人は何かを失った時に初めて、それがかけがえのないものだったことに気づかされるのではないでしょうか。
今まで「あたりまえ」だったことが、いかに「有り難い」ことであったのか、そこには「後悔」とともに「感謝の念」が生まれてきます。
そして、自分が様々な関わりの中で「生かされている」ことに気づいた時、「自我」の壁は崩壊し、そこから新たな「命」が輝き始めます。
老いや病いは、本当に大切なものを思い出すための神様の贈り物であり、蛹が蝶になるように、「命」が物質の次元から魂の次元へと脱皮するチャンスなのだと、私は考えています。
医療に従事している友人が、ある患者さんと出会って「命」に対する見方が変わったという話をしてくれました。
その患者さんは、膵臓癌が全身に転移し、回復の見込みがない状態だったそうです。生きる希望が絶たれる中で、末期がんの激痛に耐えながら、その方は、周りを気遣い、担当した医療スタッフに手を合わせ、微笑んであの世に旅立って行かれたそうです。
肉体だけが「命」と信じて医療に従事してきた友人は、その患者さんの生き様に心を打たれ、思わず「どうしてそんな風に生きることができるのですか」と質問せずにはいられなかったといいます。
その方からは「肉体は滅んでも、魂は永遠の生命を生きるからです」という答えが返ってきたそうです。
その患者さんの「生命の輝き」は病床を訪れる人たちを癒し、死ねばすべてが終わりと考えていた友人の認識を変えました。
今、私たちの暮らす世界には、様々な「痛み」が蔓延しています。肉体の痛み、精神の痛み、社会的な痛み、これらひとつひとつの痛みは、それを実際に体験した人でなければわからないかもしれません。
しかし、自分の身に降りかかった「痛み」を、魂を目覚めさせるための「呼びかけ」として受け止めることができれば、そこには魂の願いを叶えるための人生の新しいステージが見えてくるのではないでしょうか。
「痛み」を通して人生の意味を自らに問い、自分が生まれてきた本当の理由を思い出した時、クリスマスキャロルのような奇跡が、誰にでも起こりうると私は信じています。
今年も残り少なくなりました。一年が終わり新しい年が始まる時は、いつも見ている太陽が、特別なものに見えます。
自分の意識が変わるだけで、見えている世界が変わります。見えている世界が変われば、人生が変わります。
クリスマスの精霊が、いつも見慣れている「あたりまえの風景」を、魂の願いを叶えるための「かけがえのない人生のステージ」に変えてくれるよう祈っています。
冬の陽光が造り出す冬凪の景色を眺めながら、
この一年を振り返っていただければ幸いです。
NATURE通信 December 2023 「水辺の陽光」
https://nature-japan.com/cat_nature/dec2023/
2023/12/22
Comment
12月のNATURE を観てエッセイを拝読しました。
心が透明に洗われてゆくようで、年末に当たり、心に積もった煩悩を洗い流すには、最適ですね。
自然とともに、静寂のひと時を過ごされ、幸せな新年を迎えられますように、祈念しております。
映像と愚老庵ノートを受け、聖夜にイエスの言葉をお贈りします。
■心を開いて、神を迎え入れ、共に食事をする
━神は、常にあなた傍にいる
I stand at the door and knock. (Rev.3)
“Listen! I stand at the door and knock; if any hear my voice and
open the door, I will come into their house and eat with them, and
they will eat with me.”
神は、戸口に立ち、あなたの心の戸を叩いている。(黙示録3)
「よく聞きなさい! 私(神)は戸口に立ち、戸を叩いている。もし、だれかが私の声を聞き、戸を開けるなら、家の中に入って、その者たちと食事をして、彼らもまた私と食事をするだろう」
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