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愚老庵ノートSo Ishikawa

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「命の輝き」Part 3

「命の輝き」Part 3

近頃、若者の間に「命の輝き」を見ることが少なくなったように感じます。そんなことはない、メディアは連日のように、並外れた能力を開花させた若者の「命の輝き」を報じているではないか、そんな反論が聞こえてきそうです。

しかし、その輝きは、ギフテッドと呼ばれるスーパースターの放つ特別な輝きなのではないでしょうか。圧倒的多数の名もなき普通の若者の「命の輝き」は、どこに行ってしまったのでしょう。

今、私たちが生きているこの世では、自由競争という名の下に、成功者となるための熾烈なレースが行われています。

そして、このレースを勝ち抜いた一握りの「勝ち組」に富が集中し、大多数の「負け組」との貧富の格差が、これまでにないほど拡大しています。

優れた遺伝子とその才能を開花させる環境を与えてくれる両親のもとに生まれれば、このレースに勝てる確率は圧倒的に高くなります。

「親ガチャ」という流行語が生まれ、ハズレを引いた者は一生「下級国民」から抜け出せないという、鬱屈とした閉塞感が若者の間に拡がっています。

レースから落脱した時、能力が劣るのも努力できないのも「自分のせい」と言われてしまうと、運命を呪うしかなくなります。

やり場のない不満と怒りは、そのハケ口を求めてネットを炎上させ、「キャンセル・カルチャー」を生み出しました。

不祥事を引き起こした生贄を探し出して、社会正義という名の下に、寄ってたかって徹底的に叩き、社会から排除しようとする動きが、時代のトレンドをつくり出しています。

勝ち組となった組織は、自らを防衛するために「コンプライアンス」という鎧で、一分の隙もなく守りを固めなければならなくなりました。

今、無数の監視カメラとコンピュータのネットワークによる「超管理社会」が構築されつつあります。この超管理社会では、「勝ち組」になった人たちも、四六時中、行動を監視され、禁忌事項でがんじがらめになって、身動きがとれなくなってしまいます。

「勝ち組」も「負け組」も、自由に命を輝かせるのが難しくなってしまった時代を、私たちは生きてゆかねばならなくなりました。

最近、クリエイティブな仕事が要求される業界で、「勝ち組」を代表するような大組織をドロップアウトする人たちが出ているという話をよく耳にします。

「コンプライアンス」や「ポリティカルコレクトネス」が声高に叫ばれ、キャンセルカルチャーを恐れた組織の過剰な忖度が、本当に「ものづくり」がしたい人たちにとっては、もはや耐えられないレベルに達してしまったのかもしれません。

リスクを避けて鉄壁の守りを固めれば、傷つくことはありません。しかし、そこから人を「感動させるもの」は生まれません。他者の眼差しに支配された「安全な牢獄」を脱出しようとする人たちの勇気ある選択には、心からエールを送りたいと思います。

人生を自分の手に取り戻した時、「組織の論理」に縛られて生きる必要はなくなります。そこには「コスパ」も「タイパ」もありません。残業規制もありません。自分の意思で、思う存分仕事ができます。

しかし、自由の身になったと思ってもそれは一時のことで、この世で自分の夢や理想を追いかけようとすると、その先には、茨の道が待っています。

アメリカではフロンティアスピリットを持つ起業家が尊敬され、新しい挑戦ができる環境がありますが、日本では一度失敗すると再起が難しいのです。

クリエイティブと言われる業界にも、大企業が下請けを支配する強固なピラミッド構造が存在します。この下請け構造から離脱し、失敗を恐れずに自分の「生き方」を貫こうとするのは至難の業です。

今とは時代が少し違うかもしれませんが、40年前、私も大手のレコード会社をドロップアウトして、小さなビデオ制作会社をスタートさせました。

これまで所属していた組織とは袂を分ち、「新しい道」を目指そうとした時、そこには、自分を守ってくれる後ろ盾が何もなくなります。

スマホで簡単に動画が作れる今の時代とは違い、動画の制作には、高額な機材設備と専門スタッフが必要でした。

私が自分の実力だと思っていたものは、組織の力を背景にしたものであり、自分がいかに組織の力に守られてきたのかを思い知らされることになりました。

夢を抱いて、世間の荒波の中へ小さな舟で漕ぎ出してみると、そこには「板子一枚下は地獄」というスリルとサスペンスに満ちた世界が待っていました。

小さな舟は、外洋の荒波を被ると、ひとたまりもなく沈んでしまいます。目的地を目指すためには、自分の置かれた状況を必死で見極めなければなりません。

だんだん世の中が見えてくると、自分がいかに無謀な挑戦をしているか、わかってきます。小さな船を維持していくだけでも、並大抵のことではありませんでした。

高額な制作機材のリース料とスタッフの給料を稼ぎ出すための仕事に追われ、自社ブランドのオリジナルコンテンツで映像出版事業を展開する、という最初の理想はどんどん遠のいてゆきます。

やがて、私たちの船は、多額の未回収金という予期せぬ大波に襲われました。自分の力ではどうにもならないところまで追い詰められて、ついに私は観念し「沈没」を覚悟しました。

この時、人生を賭けて築き上げてきた世界が、私の中で音を立てて崩れてゆくのを感じました。そして「終わった」と思いました。しかし、船は沈没せず、私は生きていました。

魂の探究者の間では、「この世」での絶望が「魂の世界」への扉を開く、と言われています。「この世の夢」が崩れ去った時、そこには、これまで見ていた世界とはまったく違う風景が見えてきました。

それは、自分が「生かされている」という風景でした。多くの人に助けられ、見えない世界に守られているという感謝の想いが、ボロボロになった私の心に甦ってきたのです。

自分の力で生きているのではなく、目に見えない「かけがえのない絆」に生かされている、心の底からそう感じた時、「もっと人の役に立ちたかった」という想いが湧き上がってきました。

「今度は、自分を守るのをやめて、人の役に立つことだけを考えて仕事をしたい」それで船が沈むならそれも宿命、そう覚悟を決め、見えない世界に自分の運命を託身して、私は新たな航海に出ることにしました。

その年の年末、テレビ中継されているベートーベンの交響曲「第九」を耳にした時、「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」というメッセージが、いきなり心に深く刺さりました。

生きとし生けるものすべてが謳う「生命の讃歌」に魂が共振し、心の深いところから「歓喜」が湧き上がってきて、涙が止まりませんでした。

音楽家が聴覚を失うという、想像を絶するような苦悩と絶望があったからこそ、「魂の次元」の扉が開かれ、人間の力を遥かに超えた見えない世界との響働によって、この作品が生まれたと言われています。

中学生の頃、音楽鑑賞の時間にベートーベンの「第九」を聴いた時、私はこの曲が伝えている世界を、知識として理解することしかできませんでした。

「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」ベートーベンが作品に込めたこのメッセージに、心が深く感動し、響振することができたのは、私がその後の人生で、苦悩と絶望を体験させてもらったおかげだと思っています。

既存の体制からドロップアウトするのは、誰にでもおすすめできることではありません。しかし、スリルとサスペンスに満ちたリスクだらけの人生があったからこそ、このような「歓喜」と出会えたことを、知っていただければ幸いです。

「この世」に肉体を持って生まれてくるのは大きなリスクが伴うと、魂の探求者たちは言います。

赤ん坊は一人では生きられません。生きてゆくためには、生まれ落ちた環境やこの世の価値観に染まらざるをえないのです。

生まれる前に抱いていた「魂の願い」は、いつしか忘れ去られ、私たちは、肉体の快楽を追い求め、「自我」がつくり出した「儚い夢」を見ながら、無明の闇を漂流することになります。

そんなに大きなリスクを冒しまで、何故私たちは「この世」に生まれてきたのでしょう。

何度も何度も転生を重ねて果たそうとした「魂の願い」を成就させるために、そして、深い縁で結ばれた忘れられない人たちと再び出会うために、私たちは生まれてくると覚者たちは言います。

時代と環境を選び、その願いを叶えてくれる両親を探し出して、私たちは「この世」に生まれてくるそうです。

この世の価値観から見て「親ガチャ」にハズレた最悪の選択ように見えても、それは、魂の願いを果たすために、私たちが自ら切望した最善の選択だったと言うのです。

「何故この両親を選んだのか」そこには、自分が生まれてくる前に抱いていた「魂の願い」を思い出すための、大きなヒントが隠されているように思えます。

今、地震や噴火、異常気象などによる災害が、私たちが築き上げた「安全で快適な暮らし」を脅かしています。人間の飽くなき欲望がつくり出した社会システムが、地球生命体の自浄作用によって、破綻し始めたのです。

次々と私たちを襲う自然災害や事故、その現場には、助けを求める人達のために、自分の身を顧みることなく必死で働く人の姿があります。その人たちには、透明な「命の輝き」が宿っているように見えます。

「スーパースターの輝き」は、私たちに生きる勇気と希望を与えてくれます。しかし、その輝きを追いかけて「推し活」をしても、私たちに、このような透明な「命の輝き」が宿ることはないでしょう。

あたりまえだった豊かな暮らしが崩壊し、「超管理社会」によって人間の心が壊れてゆく時代に、私たちは生まれてきました。

何故、この時代に、この場所で、この両親の元に、私たちは生まれてきたのでしょう。私たちが本当に望んでいたことは何だったのでしょう。

自分の置かれた「時と場」と「縁のネットワーク」の中に、その解答を見つけ出した時、その人にしか輝かすことができない「命の輝き」が甦ってくると、覚者達は言います。

今、破壊と変革の時代が始まろうとしています。崩壊してゆく物質文明の廃墟の中から、人間の「命の輝き」が甦ってくる時代を、私たちは迎えようとしています。

危機に臨んで覚醒する名もなき人々の透明な「命の輝き」が、新しい時代への道を照らし出してくれることを、心から祈っています。

 

風と波が造り出す「景色の変化」を眺めながら、
これから迎える時代を予感していただければ幸いです

NATURE通信 January 2024 「風と波」
https://nature-japan.com/cat_nature/jan2024/

2024/1/26

Tags:内宇宙の旅

Comment

  • Akira Ishibe:
    2024年1月27日

    「命の輝き」を拝読して、想ったこと、気づいたことを認め投稿させていただきました。今回も、素晴らしい映像とともに、ありがとうございます。

    ■雲間の月こそ美しけれ━闇から生まれる光

    ビートルズの「Let it be」、曲名のもとは、シェークスピア『ハムレット』の台詞、“Let be”(ままに)に遡ることができる。

    それは、偶然に身を任せる意味ではなく、(神の定めた)運命に身を任せ、托身する、運命を抱きしめ、愛し、応える意味である。与えられた限りある生の中で、できる限りの人生を生き抜こうと覚悟する想いである。

    人生で誰もが一度は自問するであろう疑問、“To be, or not to be.”(生か、死か)━。自分とは何者なのか。社会の評価、他人の目に合わせ自分が脚光を浴びる称賛を求め生きても、やがて誰も絶望と恐怖に落ちる。

    そして、自分の弱さ、未熟、愚かさ、醜さ、罪悪、救われ難い業(ごう)の力に砕かれ、斃れ泥沼に顔を埋め、闇を認め受け容れる。その時、真のいのちの輝きが、顔を見せる。絶望と恐怖の闇の中だから見える光がある。

    不動の太陽と空があるから、地球の美しさが一刻もとどまることなく移り輝いている。私たちの心・自我は、海のさざ波のようだ。“To be, or not to be.”と悩むのは、波の一山が自分だと思い込まされているから。波を支える大海、太陽と空に眼を転じれば、生かされている生命のつながりが感じられ、感謝と喜びが湧いてくる。Let be.与えられた運命の材料をどう料理し、命を輝かせて生きるのか。ここに人間の真の自由と平等、尊厳と至福がある。いつも、今この時から、新たな運命を選び創るのは自分の心だから。

    And when the night is cloudy there is Still a light that shines on me.
    Shinin’ until tomorrow, let it be.

    雲に覆われた夜の闇も、光は、わたしに注がれ、明日の未来も、輝き照らし続けてくれている。あるがまま(自然法爾━自然の理のまま)に生きよう。

    Akira

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