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美の世界について考える

美の世界について考える

Akiraさんの寄稿、「日本の美を求めて/心を救う用の美」を読んで、あらためて美の世界について考えてみました。

柳宗悦が、名もなき職人たちの手仕事によってつくられた生活道具に「用の美」を見い出し、民芸運動を興してから100年という月日が流れて、時代は大きく変わりました。

私たちは今、便利さとデザイン、コストパフォーマンスに優れた生活道具に囲まれて、「機能美」の中で暮らしています。それを可能にしたのは、科学技術と工業生産です。

生活を便利で豊かなものにするという意味では、「機能美」と「用の美」は同じように見えます。その違いはどこにあるのでしょう。

柳宗悦は、自然の素材に感謝しつつ自らを主張することなく、使う人に奉仕しようとする作り手の想いが、「精神の美」となって生活道具に宿るのを感じて、そこに「用の美」を見い出したのではないでしょうか

30年程前に、漆芸家の本間幸夫さんの「漆と木にあやかって」というビデオを制作してGROWで発売したことがあります。

本間さんは、製造法の秘密を守るために分業化された漆芸の世界で、一人の作家が最初から最後までひとつの作品を創るというスタイルを確立し、最後には、漆の木を育てて自分で漆を搔くところまでいってしまった人です。

ビデオを制作している時、本間さんは、こんなことを語ってくれました。「花器の美は、花が入ってはじめて完成する。食器の美も、料理が盛られてはじめて完成する」「飾られるものではなく、使われるものを作ってゆきたい」

使う人と共に、周囲の環境と一体になって美を完成させる。この本間さんの言葉に、「用の美」の奥深さを、教えられた気がしました。

自然が造り出す木と木目の美しさ、土と火が陶器につくり出す景色の美しさは、人間の技をはるかに超えた創造の世界があることを教えてくれます。

自然や神仏に対する畏敬と感謝が器に宿る時、器は日常の生活道具でありながら、物質の次元を超えて、「魂の故郷」へと私たちを誘います。

「よき工人は自然の欲する以外のことを欲せぬ。自然の子となる時、美に彼は彩られる。母のその懐に帰れば帰るほど、美はいよいよ温められる。」

Akiraさんがセレクトしてくれたこの柳宗悦の言葉は、NATUREの動画づくりに取り組む私の心も温めてくれました。

美しいと感じる「美の世界」が、人によって違うのはどうしてなのでしょうか。それは、私たちが見ている「美の世界」が、私たちがこれまでの人生で築き上げてきた「価値観」を投影した世界だからではないでしょうか。

肉体の求める美から、心の求める美、魂の求める美まで、私たちの「美の世界」は多様であり、底知れぬ奥深さを持っています。

私たちの「美意識」は、生まれ育った環境のもとで、両親や家族、友達によって育まれ、教育やメディアによってつくり上げられてきました。

その「美意識」は今、マスメディアやインターネットから降り注ぐ情報のシャワーによって洗い流され、自分の意思で選んでいると思わせる巧妙なマインドコントロールによって、次々と上書きされています。

今、この世の美のトレンドをつくり出しているのは、高級ブランドやミシュランの星に代表されるような、贅を尽くしてこの世の美と快楽を極めようとする世界ではないでしょうか。

この世界のことを考えるだけで心がときめき、幸せな気持ちになるという方も多いと思います。私もこの世界から様々な美の世界を学ばせてもらっています。

しかし私は何故かこの世界に、仏教が説く、成仏できなかった霊魂が転生輪廻する六道(天/人間/修羅/畜生/餓鬼/地獄)の「天」を垣間見てしまうのです。

「天」は夢や憧れが叶えられた甘美な世界です。しかしこの世界では、享受している美や快楽を失う不安と恐怖から逃れることはできません。この苦しみから救われて心の安らぎを得るために、人は物質の次元を超えた「仏の世界」を求めるのだと言われています。

芸術作品の宝庫と言われる「美術界」も、この世の「美の基準」をつくり出しています。そして、その背後には巨額の金銭が動くアートビジネスの世界が存在しています。

作品の価値を高めるために、その道の専門家による権威づけが行われ、メディアによってプロパガンダ情報が拡散されます。そしてオークションでつけられた価格が「美の基準」をつくり出すのです。

自分が感動していなくても、周りが認めているから美しいと思わなければいけない、そんな周囲からの同調圧力も「美の基準」をつくり出しているのではないでしょうか。

アンデルセンは「裸の王様」という童話で、自分の地位や面目を守るために、実際には存在しない王様の衣装を美しいと褒めそやす人たちの姿を描いています。

私たちは生まれてきた時、「王様は裸だ」と素直に言える子供のように無垢な心を持っていたはずです。しかし、この世を生き抜いてゆくために、さまざまな「美の基準」を身につけ、いつの間にか、そのフィルターなしに真実を見ることができなくなってしまったのかもしれません。

Akiraさんは、もう一つの寄稿「ブッダの心を尋ねて」」で、このことに触れています。

今からおよそ2500年前、ブッダが悟りを開いたとき、最初に言ったとされる言葉がある。━不思議だ、不思議だ、一切の生きとし生けるものは、本来、仏そのものなのに、煩悩でおおわれているがゆえに、その真実に気づいてないだけなのだ(『涅槃経』)。

夢や憧れを抱き、この世の美と快楽を求めた時、私たちは煩悩に覆われ、無明の世界を彷徨うことになるのでしょうか。そこに救いは無いのでしょうか。

ブッダは、「煩悩即菩提」という教えを説きました。煩悩は真実の世界を覆い隠し、様々な苦しみをつくり出します。

しかし、その苦しみがあるからこそ、救いを求めて仏の世界に向かうことができる、そして、私たちの煩悩がつくり出したこの世のあらゆる「美の世界」が、すべて仏の世界へ向かう道となる、この教えは、想像を絶するほどの「仏の慈悲」に包まれているのではないでしょうか。

「仏は私たちの心に内在する」悟りを開いた覚者たちは、口を揃えてこう説きます。私たちは皆、煩悩がつくり出す儚い夢を道しるべにして、内宇宙に仏を求める旅をしているのかもしれません。

この旅が、本当の自分、そして本当の世界と出会える旅になりますように。

 

LINKS

 

日本の美を求めて/心を救う「用の美」 Akira Ishibe
日本文化の揺籃:ブッダの心を尋ねて    Akira Ishibe
https://grow-an.com/mate/

 

漆と木にあやかって/本間幸夫  (Video)
https://iframe.mediadelivery.net/play/276449/c52fe88b-fbfc-46f2-b3b7-da449ff379f0
本間幸夫webサイト「本間幸夫の漆の仕事」
https://hommayukio.jp

 

NATURE通信  July 2024 「梅雨明けの想い出」
https://nature-japan.com/cat_nature/jul2024/
 

 

2024/7/26

Tags:内宇宙の旅

Comment

  • 石部 顯:
    2024年7月26日

    「美の世界について考える」を拝読させていただき、有り難うございます。二つのことを感じましたので、コメントさせていただきます。

    先日、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授が、日本文化の特性について語っている講義を観ました。
    彼は、「日本文化は世界に誇れる比類のない文化である」と語ったフランスの文化人類学者レヴィ・ストロースに共感し、「縄文文明は、世界四大文明に並ぶ文明だと思っています」と言います。
    その1例として、石川さんが挙げられた「漆塗り」について、すでに縄文時代から行われており、それが現代の日本にまでつながっている事実に、日本文化の特性の一つを見ていると語りました。

    さらに、海外から多様な文化を「受容」するのだけれど、例えば、お茶━それを単なる飲み物として終わらせずに、「精神性を育む(魂の霊性を開花する)」すなわち「道」として発展させ(茶道となる)、独自の文化にするところが日本文化の比類のない独自性であると喝破しています。
    確かに、剣道、華道、香道、縫道、技師道、何でも「道」にしてしまう日本人の精神性がどこからきているのか、面白いですね。

    そして、こうした日本文化の根底にあるのが、聖徳太子の「和をもって貴しとなす」の精神であるとし、それは縄文文明に根差し、世界に類がないのは、伝統が日本の現在に結合されている点にあると言うのです。
    アメリカを代表する知性の一人であるサンデル教授が、ここまで日本文化について洞察していることに感動しました。

    そして、最後に、美について、━。

    〇苦しみがあるからこそ、救いを求めて仏の世界に向かうことができる、そして、私たちの煩悩がつくり出したこの世のあらゆる「美の世界」が、すべて仏の世界へ向かう道となる、この教えは、想像を絶するほどの「仏の慈愛」に包まれているのではないでしょうか。

    強く同感します。「煩悩即菩提」を宣揚した天台智顗の言葉を、石川さんに捧げ、共有させていただきます。

    ・欲望は、道である。悪行をやらねば、道を求めない。
    ・魔界、すなわち仏界なり。
    ・仏の世界の中に、魔の世界がある。
    ・慈は、無量の仏なり、悲は、無量の魔なり。
     無量の慈悲は、すなわち無縁の一大慈悲なり。
    (縁のあるなしに関係なく、ただただ慈悲の光を注ぐのだ)
                        ━『摩訶止観』

    Akira

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