愚老庵ノートSo Ishikawa
焚き火の記憶

「夏の焚き火の準備ができたので来ませんか」岩手県の遠野を拠点に活動している建築家の清水さんからお誘いがありました。
昨年、清水さんとのコラボで「雪の中の焚き火」を収録し、そのハイライトシーンを NATURE通信でお届けしましたが、今回は「夏の焚き火」にチャレンジすることになりました。
前回はひとり旅でしたが、今回は「NATURE JAPAN」の日本語を英訳してくれているBrian が一緒です。Brianは、清水さんが提唱する自然と共生する「微気候デザイン」に共感し、その英訳を手掛けてきたこともあり、今回の遠野行きを心待ちにしていました。
早朝5時にBrianをピックアップして遠野へと向かいました。遠野までは車で7時間の旅です。ドライブの道中で、Brianは「ネイティブアメリカンの焚き火」について話をしてくれました。
シアトルで育った少年時代、Brianにはスー族のネイティブアメリカンの友人がいて、不思議な友情で結ばれていたそうです。
「白人は大きな火を焚いて遠くに立つ。インディアンは小さな火を焚いて近くに座る」彼らにはそんな言い伝えがあると言います。
インディアンはテントの中で、薪を先端から少しずつ燃やし、最小限の炎をゆっくりと大切に使って、灰になるまで燃やしきるというのです。
「自然を尊いものと考え必要以上に使わない」「七代先の未来の子孫のことを考えて自然を大切にする」、自分はこのようなネイティブアメリカンの教えに大きな影響を受けたと、Brianは語ってくれました。
白人の文化にどっぷりと浸り、「大きな火を焚いて遠くに立つ」ことが当たり前になってしまった我が身ですが、アメリカ人でありながら「私の教会は山、川、海岸です」と言い切るBrianの生き方が、少し理解できたような気がしました。
私が子供の頃は、東京でも焚き火ができました。「焚き火」という小学校唱歌を覚えていらっしゃる方も多いと思います。
「垣根の垣根の曲がり角、焚き火だ焚き火だ落ち葉焚き、あたろうかあたろうよ、北風ぴいぷう吹いている」
「焚き火」と言えば、私の心には掃き集めた落ち葉を道端で燃やすこの風景が浮かんできて、火の暖かさと落ち葉が燃える時の音や煙の匂い、芋を焼いて食べたことなどが懐かしく思い出されます。
街角の焚き火は危険という理由で禁止され、焚き火は街から完全に姿を消してしまいました。この半世紀の間に、生活環境の急激な変化によって、私たちが火に直接触れる機会は、どんどん少なくなっているように感じます。
昭和の時代、私たちは火をつけるのにマッチを使っていました。炊事をするにも、風呂を炊くにも、仏壇の蝋燭に火をつけるにも、花火をするにも、煙草一本吸うにも、私たちはマッチのお世話になっていたのです。
マッチを擦った瞬間、オレンジ色の炎が勢いよく吹き出し、その熱と黄燐の匂いが鼻先をかすめます。最後にマッチを擦ったのは、いつの日のことだったでしょう。
19世紀、アンデルセンの「マッチ売りの少女」の時代から、マッチの炎は私たちの暮らしの片隅で、様々な人生を照らし出してきました。そのマッチも今や絶滅状態にあります。
最近、ガスコンロを使わない人が増えているという話を耳にします。火事や火傷の危険を考えれば止むを得ないことなのかもしれませんが、火との触れ合いが生活の中から消えてゆくことには、一抹の寂しさを感じます。
その反動からかもしれませんが、キャンプでの焚き火が今、秘かなブームとなっているようです。都会を離れ、暖炉のある暮らしを求める人も増えていると聞きます。
人は何故「焚き火」に惹かれ、その炎にノスタルジーを感じるのでしょう。
狩猟採取をしていた原始時代、私たち人類は、外敵と寒さから身を守るために焚き火の周りで身を寄せ合い、夜の闇を過ごしてきました。この時代の「焚き火」の暖かさと安らぎの記憶が、私たちのDNAには、しっかりと刻み込まれているのかもしれません。
青葉に囲まれた夏の焚き火は、冬の焚き火とは違う趣があります。黄昏時に収録を始めると、山の端に沈んでゆく太陽と燃え始めた焚き火の炎が交錯し、そこに不思議な景色が生まれます。
この神秘的なシーンを見ているうちに、何故かギリシャ神話のプロメテウスのことが心に浮かんできました。
プロメテウスは、天界の火を盗んで人間に文明と技術を授け、その罰を受けて鎖に繋がれ、不死身ゆえに毎日鷲に肝を食べられるという苦しみに耐えた英雄として知られています。
私たちは、授けられた火によって暗闇を照らし、身体を暖め、食物を調理しました。そして、土から器を焼き、金属を溶かして様々な道具や装飾品を造り、鉄を鋼にしてより強力な武器を生み出してきました。
そして私たちは、その火を闘争や刑罰にも使いました。焼き討ちや魔女裁判による火刑など、人間は同じ火を使って「陰惨な闇の歴史」もつくり出してきたのです。
ミサイルや空爆による焼き討ち、現代の魔女裁判と言われるネットリンチによる炎上、時代とテクノロジーは変わっても、私たちが行っている行為は、昔と少しも変わっていないようにも思えます。
私たちの心の中には、様々な「火」が燃えています。心を焦す欲望の炎、吹き荒れる怒りの炎、燻っている憎しみや恨みの炎、メラメラと燃え上がる嫉妬の炎。この「業火」によって、私たちは、いかに多くの同胞を傷つけ、抹殺してきたことでしょう。
焚き火の炎を見つめていると、人間を慈しみ助けようとしたプロメテウスがどうして神々の王であるゼウスから罰を受けなければならなかったのか、その理由がわかるような気がしました。
その一方で「火」は、肉体に囚われてしまった私たちの魂が、神の存在を思い出し、魂の故郷に還るための道を照らす光としても使われてきました。
世界最古の宗教の一つといわれるゾロアスター教は拝火教とも言われ、「火」は神聖な力や真実の象徴として崇められ、神殿では聖なる火が絶えないよう大切に守られていたと言われます。
仏教では「火」は、仏の智慧の象徴とされています。法灯という言葉があるように、故人があの世に旅立つ時には、無明の闇を照らすために灯明が点され、お盆には、この世に帰ってくる先祖の霊のために、迎え火と送り火が焚かれます。
密教では、仏の智慧の炎で煩悩を焼き尽くすために、祈願が書かれた特別な薪が護摩壇で焚かれ、真言が唱えられてきました。
この世に存在する悪と罪を焼き尽す「火」は、神の力の象徴としてキリスト教の聖書にも登場します。
旧約聖書の創世記に出てくる「ソドムとゴモラ」、悪徳の限りを尽くしたこれらの都市は、神の怒りに触れ「硫黄と火」によって滅ぼされたと記されています。
足ることを知らぬ物欲と快楽に溺れ、地球生命体がいくら警告を発しても「物質姦淫」を止めようとしない私たちの現在の姿は、このソドムとゴモラの時代を彷彿とさせます。
新約聖書には「私が来たのは、地上に火を投ずるためだ」というキリストの言葉が残されています。キリスト教の「火」は、古い秩序や既成概念を焼き尽くし、新しい霊的な生命を吹き込む神の力を象徴していると言われます。
私たちが生きているこの世は今、キリスト教徒ではなくても「キリストの再臨」を求めたくなるような終末的な様相を呈しています。
私たちが近くに座って焚いていた「小さな火」は、科学技術によって一気に燃え広がり、いつしか制御不能の「大きな火」になって、今や地球全体を覆い尽くしました。
この数百年の間、私たちは、科学技術の力によって豊かな物質文明を築き上げ、その恩恵を享受してきました。そして今、加速度的に進化するテクノロジーによって、私たちは宇宙へと進出し、神の領域とされてきた「生命の神秘の世界」にまで足を踏み入れようとしています。
そして、その強大な力ゆえに、私たち人類は今、破滅の崖っぷちに立たされています。己の欲望を満たすために地球の資源とエネルギーを乱獲し続けた結果、環境破壊や地殻変動が進行し、異常気象や天変地異が私たちの日常を脅かし始めたのです。
陸地の水没、干魃と山火事、火山の噴火と地震、これから先、様々な厄災が地球に降りかかることを、私たちは心のどこかで感じているのではないでしょうか。
あらゆる生命がひとつに繋がった「地球生命体」からの警告にもかかわらず、私たちは、なかなかこれまでの生き方を変えようとはしません。その根底にあるのは、自分と他者を区別し、肉体だけが自分であり、死ねばすべて終わりと、頑なに信じている私たちの「意識」です。
現在の地球の危機をつくり出しているのは、物質の次元で自分と対象を切り離して考える「科学への信仰」と、自然を資源とみなして浪費する私たちの飽くなき「煩悩」なのではないでしょうか。
今時代が求めているのは、「人間と自然はひとつに繋がった切り離せない運命共同体」と考える高次元の「魂の智慧」を甦らせることだと私は思います。
物質の次元を離れて人間の内宇宙を探究した覚者たちは、「肉体と魂」「この世とあの世」の関係を解き明かし、私たちの本体が、永遠の生命を生きる魂であることを、伝えてくれています。
焚き火の焔は、私たちの心の最深部に存在するこの「魂の智慧」の記憶を照らし出してくれます。燃え上がる焔が、私たちの意識の深層に、新しい時代の息吹きを吹き込んでくれることを願って止みません。
LINKS
今月のNATURE通信は、森と湖の風景です。
今回遠野で収録した「夏の焚き火」は、来月にお届けします。
NATURE通信 June 2025 「初夏の森と湖」
https://nature-japan.com/nature-tsushin/
「縁友往来」に新しい投稿があります。
令和の米騒動 by 流水
https://grow-an.com/mate/mate-032/
殺人鬼に向かうブッダ、千人殺せと迫る親鸞━闇こそ光る By Akira
https://grow-an.com/mate/mate-031/
参照
2025/6/25
Comment
■遠野の焚火を見て想う
若い頃、プロメテウスに、わが想いを重ね、業罰を背負って虚しい人生を愛に生きる、アルベール・カミュに共感していましたが、愚老庵さんの言われる通り、人類は火を扱えるほどに、進化していなかったのでしょう。神に聞かず、盗んだところが自我でしたね。
火で焼かれた悪徳の栄え・ソドムとゴモラ。今世界がソドムとゴモラに化し、金と暴力で、世界を支配する力に席巻されている。炎を逃れたロトの妻は、忠告を無視して、未練のあまり街を振り返って塩になった。振り返りたくなるその気持ちもよくわかる。
炎に燃える街を観て、アブラハムは嘆く。人は、自らの欲望と願望ばかりを、神に訴え、語り、語り続けるが、一向に、神の言葉を、聞こうとしない━。今も、自然界が上げる悲鳴を通して、呼びかけられる神の声を、聞こうとする人はまれである。
広島と長崎が核の炎に焼かれ、現在は、地球を幾つも焼き、破壊する力を蓄えた。ドローンを使って空から降る炎も作った。いつになれば、炎を扱えるだけの人間に進化するのだろう?風に聞けというのか。
人類は、炎(光・陽)の輝きと熱に浮かれ、炎が、薪や炭がもとは土(闇・陰)から生じていることを忘れたのではないか。仏教や錬金術などでは、人間の煩悩と業の闇を、悟りと智慧に変容する道を求めてきた。
煩悩と業の闇を薪にたとえ、悟りの智慧を炎にたとえ、闇が深ければ深いほど、光は大きくなると説く。闇の中にある光にこそ気づき、闇を光に変えて燃え上がらせ世界を照らす━日本人よ、覚醒せよ、との神の声を聞いて応える若い人たちが、生まれ行動し始めていることが、大いなる希望である。
夜明け前、最深の闇にこそ、曙光が現れる。
コメント投稿には会員登録が必要です。