愚老庵ノートSo Ishikawa
人生を断捨離する

後期高齢者になってはや三年が過ぎ、近頃めっきり肉体の衰えを感じるようになりました。歩くスピードが遅くなり、立ったまま靴下が履けなくなり、トイレが近くなり、声に力がなくなってきました。
毎月2回のペースで、NATUREのロケには出かけていますが、少し無理をすると、なかなか疲労が回復しません。どうやら「老い」という人生の最終テージに足を踏み入れてしてしまったようです。
仏陀は、私たちがこの世に肉体を持って生まれてきた故に背負わなければならない四つの苦しみがあると説きました。それは「生老病死」という四つの苦しみです。
私は若い頃に、肉体から魂が離れてしまう幽体離脱を体験し、その後ずっと霊魂の世界を探究してきたおかげで、「死」がさほど恐ろしいとは思っていません。
しかし「老」と「病」の苦しみについては、そうもいきません。おかげさまで今はまだ、生活に深刻な支障は生じていませんが、老いによって身体は刻々と衰弱してゆきます。
願わくは「ピンピンコロリ」であの世に旅立ちたいのですが、これまでいたわることをせず酷使してきた報いで、 ボロボロになった肉体には、様々な「病変」の兆しが現れ始めています。
治療を受ければ「病」は一時的に回復するかもしれません。しかし老朽化した肉体は、決して元の状態に戻ることはありません。それでも私たちは治療を続けて延命をはかろうとします。
投薬や手術を繰り返し、死ぬまでずっと「朽ち果ててゆく肉体」に抗い続けてゆかなければならないとしたら、私たちの人生の最終ステージは苦痛に満ちたものになってしまいます。
権力者や超富裕層が求める不老長寿の最新テクノロジーも私たちにとっては夢物語に過ぎません。残念ながら、物質の次元でテクノロジーを追求する現代の医学は、この苦しみから私たちを救ってはくれません。
今この時代に、「老」と「病」をどのように受け入れ、残された「この世の時間」を生きてゆけばよいのか、今回は、私の体験をレポートさせていただくところから始めたいと思います。

私が自分の肉体の「老い」をはっきりと意識したのは、三年前のことでした。久しぶりに親しい友人たちと楽しくお酒を飲んでいた時に、突然意識不明になって、病院に救急搬送されてしまったのです。こんな体験は生まれて初めでした。
病院では、脳卒中と心筋梗塞を疑われてCT検査とMR検査を受けましたが、結果は異常なし。その他の検査では、血圧が高くなっていて、ヘモグロビンA1cの値が7.0と糖尿病スレスレのレベルになっているという結果が出ました。
放射線科と循環器内科科と消化器内科を受診するように言われ、診断を受けたのですが、お酒を飲み過ぎた訳でもないのにどうしてこんなことが起きたのか、どのドクターからも納得のいく説明が受けられませんでした。
この医療施設では、臓器別に診療科が専門分化していて、それぞれのドクターが私の症例について意見を交わした様子は見られませんでした。どうやらこの施設では、原因が特定できない病変を総合的に診療することは難しいようです。
原因不明のまま、お酒を飲む度に救急搬送されて周りに迷惑をかけるわけにはいきません。自分の体にどのような異変が起きているのか、その解答を求めて、私は「病院巡り」をすることになりました。
まず手始めに、症状を解明してくれそうな近所の内科クリニックをネット検索し、受診してみることにしました。
このクリニックでは、「動脈硬化が進行して血圧の上下差が大きくなってしまい、飲酒で血圧が急激に下がったために、意識を失ったのではないか」そんな説明をドクターから受けました。
そして投薬によって血圧をコントロールし、血液脂質を改善する治療が始まりました。月に一度、血液検査の数値をチェックし、薬の服用を一年以上続けたおかげで、血圧は下がり、糖尿病の指標となるヘモグロビンA1cの値も基準値内まで下がりました。
しかし、薬には副作用があります。降圧剤で無理やり血圧を下げると、めまいやふらつきが起こります。薬で血糖値をコントロールすると体に力が入らず、意欲が低下するという状態も起きてきました。
NATUREの収録や愚老庵の原稿を書く時など、意識を集中しなければならない時にエネルギーが湧いてこないというのは、私のQOLにとっては致命的なことです。
検査数値を基準値内にコントロールするために「生活習慣病」の薬を飲み続け、その副作用でQOLが低下してしまうという治療は「私の生き方には合わないのではないか」そんな想いが強くなってきました。
現代の医療は西洋医学をルーツとし、臓器を個別のパーツとして考え、病変を投薬によってコントロールしたり、病巣を手術によって除去したりするという治療を行なっています。
それに対して東洋医学では、身体全体をひとつに繋がったシステムと考え、自然治癒力を重視し、全体の調和を保つことを目指しています。
私はかねてよりこの東洋医学の考え方に惹かれていました。「これは自分の体で、東洋医学を体験するチャンスなのではないか」そう考えて、近所にある東洋医学のクリニックの門を叩くことにしました。
この東洋医学のクリニックでは、心身の状態、生活環境から食事まで含めた丁寧な問診があり、医食同源という考え方から食事による生活改善指導を受けました。
食事を改善し、漢方薬による治療を半年ほど続けたおかげで、血圧と糖尿病の指標となる検査数値は安全圏?まで下がりました。そして、私は「体が重くなって意欲が低下する」という薬の副作用から解放されたのです。
東洋医学恐るべしです。しかし、喜んでばかりはいられませんでした。残念なことに、今度は別の問題が起きてしまったのです。血糖を尿で体外に排出する薬をずっと服用し続けてきたせいなのか、トイレが我慢できない「頻尿状態」が発生してしまったのです。
まさか自分に「尿もれ」が起きるとは夢にも思っていませんでした。オムツをしている自分の姿を見ると、人間の尊厳が足元から崩れていくような何とも情けない感覚に襲われました。
症状を訴え、漢方の高価な煎じ薬を調合してもらって3ヶ月ほど服用したのですが、全く効き目がありませんでした。この状態にはとても耐えられず、西洋医学の泌尿器科クリニックを探して、治療を受けることにしました。
生まれて初めて行った泌尿器科では、膀胱と前立腺が炎症を起こしていると診断されました。薬を処方されてそれを服用すると、すぐに症状は軽減し、オムツからは解放されました。
感染症や急性疾患、外傷治療の分野では、先進テクノロジーを駆使した西洋医学が大きな力を発揮することを、この体験を通して、あらためて教えられたような気がしました。
おかげさまでそれから1年、安心してお酒が飲めて、頻尿の薬以外は薬を何も飲まなくてよいという平穏な生活が続きました。しかし、そんなある日、事件が起こりました。
また尾籠な話で申し訳ないのですが、大便が大腸の出口を塞ぎ、全力でいくら息んでも排便できなくなってしまったのです。血圧は200をはるかに超え、自律神経がおかしくなって居ても立ってもいられないようなパニック状態に陥りました。
すぐ近くに開業したばかりの内科のクリニックに駆け込んで、座薬をもらって事なきを得ましたが、久しぶりに血液検査をすると、ヘモグロビンA1cの値が8,5という結果が出て、即座に糖尿病と診断されました。
念のためにと勧められるままに、全身麻酔をして大腸内視鏡検査を受けてみると、なんとポリープが9個もあり、検査中にすべて切除したとドクターから告げられました。
幸いポリープは良性でしたが、これまで消化器系の病気をしたことがなかったので、大腸で病変が発見されたのはショックでした。
振り返ってみると、この1年間「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、体質改善の努力がいつの間にか「ゆるく」なっていたようです。
「どう頑張っても、もうそんなに長く生きられないのだから、我慢せずに食べたいものを食べればいいじゃないか」そんな悪魔の囁き?に誘われて、炭水化物やスイーツやなど、血糖値を上げるものについつい手を出してしまっていました。
この体験で、「体は食べているものによって日々つくられている」ということを、あらためて教えられたような気がしました。
このクリニックを開業したドクターは、一度他の職業に就いてから医師を志し、地域の人たちの役に立ちたいという想いから、このクリニックを立ち上げたそうです。
厚労省の生活習慣病ガイドラインに従って、投薬によって検査数値を適正にコントロールすることだけを金科玉条としている医療施設が多い中で、このクリニックは、栄養管理士を常駐させて、食による体質改善にも力を入れていました。
まず食生活を改めること、並行して薬を服用して血圧と血糖値を下げること、この施設ではそんな治療計画を提示されました。
「私にはライフワークがあるので、副作用のある薬は飲みたくありません」そう言って抵抗すると、「糖尿は眼にもきますよ。良くなったら薬を減らせばいいので、まずとにかく血糖値を下げましょう」そんな言葉がドクターから返ってきました。
私の仕事を知った上で「眼にきますよ」と説得するドクターは、なかなか凄腕のネゴシエーターだと思いました。
検査数値だけを診て人間を診ないドクターばかりになってしまったこの時代に、このようなドクターに出会えたことも何かの縁ではないかと思い、しぶしぶ治療を受け入れることにしました。
老いというステージでは、いつ身体に異変が起きるかわかりません。自分の生き方を応援してくれる「かかりつけ医」を探し出して関係を築いておくこと、それが、残された人生のQOLを高めるためには必要なことなのではないか、「病院巡り」をしてみて、それを強く感じました。

救急搬送されてから3年、患者として医療施設を巡ってみると、そこには現代の医療が抱える課題も見えてきました。
臓器別に専門分化した縦割りの診療は、全体がひとつに繋がった生体システムとして人間を総合的に診療することを困難にしています。そして、診療科ごとに別々に出される治療薬は、様々な副作用や「薬害」を引き起こしています。
今、医療の現場では、超高齢化社会で、老人特有の病変が増加してしているにもかかわらず、「老人医療」について学んだ医師が少なく、若い人と同じガイドラインによって老人の診療が行われています。
その代表例が血圧です。歳をとれば動脈が硬化し血管が細くなります。全身の毛細血管に血液を行き渡らせるために、老人の血圧が上昇するのは自然のことです。20歳と70歳の血圧の降圧目標は本当に同じでよいのでしょうか。
厚労省の医療機関への受診勧奨基準は、2000年まで上の血圧が 180でしたが、2008年に基準値が引き下げられて、130になりました。その結果、高血圧症と診断される患者は激増し、降圧剤の年間売り上げは、2000億円から1兆円以上に跳ね上がったと言われています。
2024年4月、厚労省は、この勧奨基準を160に変更しました。これは超高齢化社会に配慮したためなのか、それとも増加し続ける医療費を抑制するためなのか、私には本当のところはわかりません。
これに対して日本高血圧学会は、2025年8月、年齢にかかわらず降圧目標を診察室血圧130、家庭血圧125 に設定した「高血圧管理・治療ガイドライン2025」を発表しました。どちらを信じればよいのか、巷では今、混乱が拡がっています。
降圧剤にとどまらず、一生飲み続けなければならないとされる生活習慣病の治療薬は、今や莫大な利益を生み出す巨大な産業へと成長しています。
国の施策と巨大な利権が絡む医療ビジネスによってつくり出された「基準」によって「この世の生命」がコントロールされる時代を、私たちは生きてゆかねばなりません。
それだけではありません。私たちは今、人類史上稀に見る「飽食の時代」を謳歌しています。街やメディアには、これでもかと言わんばかりに欲望を喚起する「食の誘惑」が溢れています。
私たちが生きている時代は、飽くなき食への欲望が様々な「病気」をつくり出している時代でもあるのです。このような時代環境の中で、私たちは今、世界に先駆けて超高齢化社会を体験しつつあります。
自分自身がいざこの「老いのステージ」に立ってみると、そこにあったのは「失われてゆく人生」でした。この世界では、記憶が失われ、身体が思うように動かなくなり、食べたいものが食べられなくなり、やりたいことを断念せざるをえなくなります。
しかしここは、ただ失うだけのステージではありません。出来ることが限られてしまうからこそ、残された「この世」の時間で自分が何を大切にすべきなのか、その優先順位をはっきりさせることができるのです。
そしてこのステージでは、失うものと引き換えに訪れてくるものがあります。それは、自分の力で生きているのではなく、周りに助けられ生かされていると感じる境地です。この境地からは感謝と安らぎが生まれてきます。
私はここで「人生の断捨離」をすることにしました。何のためにこの世に生まれてきたのか、それを自らに問うことで、自分が執着している「夢のかけら」を削ぎ落とすことにしたのです。
肉体に執着する「自我」は、様々な理屈をつけて、この断捨離に抵抗しようとします。しかし、老いと病は、どうあがいても諦めざるをえないという状況を作り出すことによって、私たちの背中を強く押してくれます。
「見果てぬ夢」を次々と捨てた後に、私の中に最後に残ったもの、それは、私たちが「永遠の生命を生きる霊魂」であることを伝えたいという「魂の願い」でした。
日々の出会いと「NATURE」や「愚老庵」という場を通して、縁友たちが魂の故郷に還るための手助けをする、このミッションのためなら、老いと病で朽ちてゆく肉体と折り合いをつけるという苦行にも耐えられそうです。
この願いに残り少なくなったエネルギーを集中し、肉体の力が尽きたらそこまで。病に倒れても無理に延命はしない、そう生きようと決意しました。
しかし、そう決意しても、病苦の痛みに七転八倒しなければならなくなるかもしれません。その時はひたすら神仏に祈ろうと思います。
「老いと病気の苦しみがあるからこそ仏と出会うことができる」という仏陀の教え、「私はいつもあなた達と共にいる」というイエスの言葉は、時空を超えて、無明の闇に苦しむ私たちに救いの光を与え続けてくれています。
「老いは神様の贈り物」「病は魂の願いを思い出すための呼びかけ」 この言葉をしっかりと胸に刻んで、この世の最後のステージを生きてゆこうと思います。
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今月のNATURE通信は、台風が去った直後の秋の海をお届けします
NATURE通信 October 2025 「秋の息吹」
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「縁友往来」に新しい投稿があります。
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「秘伝のレシピ」 By 流水
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2025/10/25



Comment
「老いと病気の苦しみがあるからこそ仏と出会うことができる」
「私はいつもあなた達と共にいる」
「老いは神様の贈り物」「病は魂の願いを思い出すための呼びかけ」
━深い言葉ですね。
高浜虚子に、「こぞことし 貫く棒の ごときもの」という句があります。
「魂の願い」とは、永遠の生命として抱き続けている願い、
「貫く棒」のようなものなのでしょう。
古代から続く西洋の数秘学によると、私の魂の目的と使命は、
「神の力のメッセンジャー」だそうです。人生で、やってきた
ことを顧みて、納得しました笑。
昔から、日本では、老いは失うばかりの季節ではなく、
収穫と円熟の時、霊性が花開くときとされてきました。
人生の一瞬一瞬をいとおしむ想い、人をあるがままに深く
受け入れ、愛する想い━。
失うものばかりを追いかけるのではなく、
訪れるものを澄んだ心で迎えてゆきたいものです。
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