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愚老庵ノートSo Ishikawa

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「余白」が内宇宙の扉を開く

「余白」が内宇宙の扉を開く

紅葉前線が山間部から平野へと降りてきました。テレビの情報番組は連日のように紅葉の風景を伝えていますが、最近、紅葉の撮影にドローンが多用されるようになったことにお気づきでしょうか。

赤や黄色の紅葉で彩られた山並みや谷間を、まるで空中散歩するかのように、滑るように移動してゆくシーンを映し出すのは、ドローンの独壇場です。

カメラを三脚に固定することなく、撮影する視点を簡易に移動できるドーローンの出現は、動画制作の世界に革命的な変化をもたらしました。

これまでセスナ機やヘリによる「空撮」では、法令で飛行空間を規制されることが多く、地表スレスレを自由に飛ぶことなどできませんでした。時間あたり20万円近いチャーター料を気にしながら天候を待ちをするのも「空撮」を行う時の大きなストレスになっていました。

地上で俯瞰移動ショットを撮影する時にも、オペレータ付きの高額なクレーンをチャーターしなければなりませんでした。移動のためにレールを引いて、カメラがブレないようにレールの継ぎ目の凸凹を念入りに修正するのも手間のかかる作業でした。

ドローンという新しいテクノロジーは、このようなストレスや苦労を、すべて過去の懐かしい思い出に変えてしまうほどの革命的なインパクトを動画制作の現場にもたらしました。

視点を移動しながら「全体を俯瞰するシーン」や「部分と全体をシームレスにワンカットで見せるシーン」を手軽に撮影できるようになったことで、動画制作の最前線では今、動画の見せ方に新しい変化が生まれようとしています。

 

「NATUREの撮影にドローンは使わないのですか」 NATURE通信を見てくださっている方から、最近こんな質問をいただきました。

これまで私は、NATUREの収録にドローンを使ってきませんでした。それは、ドローンの映し出す動画が、視覚を通して私たちの表面意識を画面に釘付けにしてしまう力を持っているからです。

人間の知覚は、この世の生存競争を生きていくために、本能的に動くものを追いかけるようにつくられています。

ドローンは、見ている視点をシームレスに「視点誘導」することによって、私たちの表面意識を惹きつけ、画面に集中させることができるのです。

通り過ぎてゆく美しい紅葉の風景を、感覚的に目で楽しもうとするだけなら、ドローンは十二分にその目的を果たしてくれると思います。

しかし、もっと心の深いところで、紅葉の美しさを創り出している神秘的な世界を感じたいと思った時、ドローンの移動スピードと圧倒的な情報量はそれをさせてくれません。

それは、表面意識が「外界」に惹きつけられている間は、「内界」へと向かう心の扉が閉じられてしまうからです。

ここに、ドローンが撮影したシーンと同じ場面を描いた一枚の風景画があると想像してみてください。

絵画の世界では、視点は固定され、必要ないところは意図的に捨象されますから、ドローンの画像と比べると、絵画の持つ物理的な情報量は圧倒的に少ないものになります。

しかし、その情報量の少なさゆえに、絵画には「余白」が生まれます。そして、その「余白」が、内界へと向かう入り口をつくり出してくれるのです。

「画家はこの画で何を描こうとしたのだろう」「どんな想いをこの画に込めたのだろう」 絵画がじっと動かず、そこに「余白」があるからこそ、私たちは、画家が描こうとした「眼に見えない世界」と対話することができるのではないでしょうか。

たとえドローンで移動しなくても、現実の世界をリアルに映し出す動画の情報量は、絵画とは比べものにならないほど膨大なものになります。

NATUREのミッションは、大自然がつくり出す「神秘的な変化」や「生命のリズム」によって、「内宇宙への旅」をナビゲートすることです。

そのためには、緻密で膨大な情報量を持つ動画シーンの中に、「余白」をつくり出さなければなりません。果たしてそんなことが可能なのでしょうか。

フレームの切り取り方を推敲して、画面から極力余計なものを削ぎ落としてゆけば、情報内容に「余白」が生まれます。

光の陰影を上手く使えば、暗部に、想像力の生まれる「余白」をつくり出すことができます。

レンズの被写界深度を使って背景をボカせば、奥行きに、幽玄な世界を感じさせる「余白」を造り出すこともできます。

神秘的な動画シーンに、いかにして「余白」をつくり出すか、NATUREの画づくりで、私はいつもこのことを心がけています。

 

スマホやタブレットなどの端末で、画像を情報として素早く検索することに慣れてしまった私たちは、特別な理由がない限り、ひとつの映像をずっと見続けることができなくなっています。

NATUREを視聴してもらうためには、このような表面意識の「検索モード」を、心の深層へと向かう「マインドフルネス・モード」に切り替えてもらわなければなりません。

大自然の神秘に触れた時、私たちは「感動」します。「感動」することによって、意識のモードが切り替わり、私たちは、出会った世界と一つになり、その世界に深く没入することが出来ます。

魂が震えるような感動的なシーンによって、休む間もなく「外界」に反応する表面意識に「内界」へと向かう突破口を開くこと、私は今、NATUREの画づくりで、ひたすらそれを目指しています。

絵画や写真は、二次元の世界で情報を伝えます。動画も二次元の画面で情報を伝えますが、そこには「時間」という四次元の世界が、同時に展開しています。

この時間という軸があるからこそ、NATUREは自然の「変化と動き」がつくり出す「波動」によって魂の共振を呼び起こし、内宇宙への扉を開くことができるのです。

動画の持つ時間軸は「生命のリズム」や「音の響き」を伝えることもできます。「ゆらぎ」を持つ自然界の波動は、規則的な人工のリズムに疲れた私たちの心身を包み、魂の故郷へと向かう道中をナビゲートしてくれます。

絵画や写真にはないこの動画の力を使って、心の深層で眠りに落ちている魂を揺り起し、私たちが何のためにこの世に生まれてきたのか思い出してもらうこと、それが NATUREのミッションだと私は考えています。

しかし、動画の持つ感覚や感情、思考を操る力は今、私たちの意識をマインドコントロールするための最強の手段として使われています。

スマホやPCの画面に釘付けになってこの世の夢や欲望を追う圧倒的多数の同胞に、同じ動画を使ってNATUREの世界を伝えようとするのは、無謀なチャレンジのようにも思えてきます。

「自分はどうして、こんな困難なミッションを選んでしまったのだろう。これは、生業で動画を使って、さんざん人の意識を操ろうとしてきた報いなのだろうか」そんな想いに捉えられて、心が折れそうになることもあります。

しかし、残り少なくなったこの世の時間を、あきらめやネガティブな想念に支配されて生きるのは「もったいない」と私は思います。

老年期は、人生に「余白」をつくり出してくれます。これは、内宇宙を旅して己の魂と出会う絶好のチャンスなのではないでしょうか。

永遠の生命を生きる魂の視点から見れば、人生は今世だけのものではありません。今という瞬間は、未来を創造しているのです。

私たちの人生が、転生によって来世に引き継がれてゆく、そう考えると、今生きている時間をおろそかにすることはできません。

作品としてのNATUREは、あの世に持って行けませんが、見えない世界を信じて、諦めることなく最後までミッションを果たそうとした「意志のエネルギー」は、持って帰れそうです。

肉体が消滅した後で、魂に何が残るのか。人生の「余白」で、本当に大切なもの、来世に持っていけるものを、探求してゆきたいと思います。

 

LINKS

今月のNATURE通信は、湖畔の紅葉と落葉の風景をお届けします

NATURE通信 November 2025 「湖畔の秋」
https://nature-japan.com/nature-tsushin/

 

「縁友往来」に新しい投稿があります。

東京を築いた天海の深謀━怨霊鎮魂と江戸祭りの秘密 
 
By Akira
https://grow-an.com/mate/mate-042/

 

有機体論的世界観」 By 流水
https://grow-an.com/mate/mate-043/

 

2025/11/25

Tags:NATUREへの道

Comment

  • 石部 顯:
    2025年11月26日

    余白について、アメリカの女優ジョディ・フォスターが、語っていたことを思い出しました。日本で「焼き芋」を食べた時の感動と衝撃で、日本文化の凄味を知ったというのです。

    アメリカだと、素材の芋に、油や甘味料などを、「足して」、加えて、こってりのスイーツで食べるのが普通。だが、日本は、何も足さない━。逆に、芋そのものの、素材が持っている素晴らしい甘みの味を、可能性を、最大限に「引き出す」ことに徹している。

    つまり、足すのではなく、引くこと、余白にあるその素材の本質を引き出すところに日本人の素晴らしいセンスがあると彼女は言うのです。

    余白とは、なにもない無ではない。想像力が無限に飛翔することを許し受け入れ、人によって、そこに豊かに潜在する可能性を引き出すことも許す、懐の深さ、深淵に咲く花なのでしょう。

    余白を、広辞苑で調べてみると、「文字などを書いた紙面の何も記されていないで白いまま残っている部分」とあります。これ、意外に深い意味があることを、愚老庵の余白のお話に重ねてみて想いました。

    白いまま、残っている部分に、想像力が引き出され、何かが感じられる。その余白に、自分の思いを書きたすこともできる。余白の美を、幽玄を、そこにある空(くう)の響きを思うとき、心に浮かぶのが、長谷川等伯の『松林図屏風』の余白です。

    言葉の限りを尽くして愛を語るもよし、愛が極まって、沈黙の静寂が語る“言語を絶した”愛もまた、いいものではないか━。余白のお話から、生まれた思いです。有り難うございました。

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