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愚老庵ノートSo Ishikawa

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死後の旅をシミュレーションする

死後の旅をシミュレーションする

「今までは、人のことだと思うたに、俺が死ぬとは、こいつぁたまらん」 高校時代三年間机を並べ、その後60年間ずっと付き合いが続いている荻原行正くんが、大田南畝の狂歌を送ってくれました。

この狂歌は大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華の夢噺」でも取りあげられていましたが、荻原くん曰く「なんかすごく今の自分の気持ちを言い当てている」のだそうです。

そして、こっちはちょっと真面目かな、と言いながらもう一首、「生き過ぎて 七十五年 食い潰し 限り知られぬ 天地(あめつち)の恩」

荻原くんとは、学び舎だった高校の近くで、もう一人の級友仲間と一緒に忘年会をすることになっていました。年のせいか、最近は、飲み会がいつしか食事会になり、一緒に庭園や名所旧跡を散策することが多くなりました。

今回は六義園から母校の旧小石川高校、伝通院、こんにゃく閻魔を巡って、鰻屋に向かうという趣向でしたが、荻原くんは、わざわざ下見までして資料を作成し、ツアーコンダクター顔負けのプランを用意してくれました。

そのお礼にという訳でもないのですが、今度は私が、これまで学んできた知識を総動員して、死んだらどうなるのか、死後の世界のツアーをシミュレーションしてみようと思い立ちました。

死後の世界については、個人の臨死体験や霊界探訪記から仏教やチベット密教、神智学の経典に至るまで、膨大な情報が残されています。

今回はその中から、現代スピリチュアリズムの源流と言われるスエーデンボルグの霊界探訪記を、ツアーのガイド情報として選ぶことにしました。

その理由は、神学者でもあり科学者でもあったスエーデンボルグなら、この世とあの世の仕組みの全貌を、現代に生きる私たちにも理解できるようにわかりやすく伝えることができるではないかと思ったからです。

それでは早速「私が死んだら」という設定で、死後のツアーをシミュレーションしてみましょう。

死を迎えると、私たちの魂は肉体を離れます。かつて幽体離脱を体験した時のように、私は自分の肉体をその傍で見ることになるでしょう。

そこに家族や友人が居ても、彼らに肉体から離れた私の姿は見えません。私がいくら呼びかけてもその声は届きません。しかし、そこにいる人たちの想念が、私には何故か手に取るようにわかるのです。

やがて、死後の世界へと導いてくれる迎えの霊がやって来ます。臨死体験した人たちが口々に語る菜の花畑を通り、眩い光のドームを抜けると、そこにはスエーデンボルグが「精霊界」と呼んだ世界が待っています。

死後、肉体が失われても私たちの意識はそのまま残りますから、自分が死んだことがわからずに、まだ生きていると思う人が多いと言われています。

先に亡くなった懐かしい人たちと出会うことができれば、自分が「あの世」にいることが理解できます。そのために精霊界では、自分が霊であることを思い出せるような様々な出会いがもたらされると言います。

霊の世界は想念の世界ですから、相手を想えば誰とでも出会えます。私をずっと待っていてくれた愛犬Baronが、真っ先に駆けつけてくれると思います。それから両親や祖父母に会って感謝を伝えたいと思います。先に逝った友人やお世話になった懐かしい人たちにも再会したいです。

スエーデンボルグによれば、霊界は、天国、霊国、地獄の3つの世界から構成され、私たちがこれからどの世界へ向かうかを選択するために、この世と霊界の中間地点に、精霊界という場所が存在すると言われています。

精霊界で自分が霊であることに目覚めた私たちは、導きの霊に生前の自分の人生を振り返るよう促されます。そして、これまでに私たちが行った所業のすべてが記録されている「想念帯」から、生まれてから死ぬまでの私たちの人生が走馬灯のように映し出されます。

嬉しかったこと、感動したこと、悲しかったこと、辛かったこと、苦しんだことなど、心に強く想ったことが、その時々のシーンとともに蘇ってくるのです。

物質の世界がすべてだと信じ、肉体の快楽とこの世の儚い夢を追いかけ、自分を守ることに必死だった己の姿を見せられた時、私たちは、深い後悔の念に駆られると言います。

精霊界で自らの人生を振り返り、そこで明らかにされた境地によって、私たちは、自分の意識に相応した霊の世界に向けて旅立つことになります。

地獄に行く人は、この世にあった時、物質的な欲望、色欲、名誉欲、支配欲などといった外面的、表面的感覚を喜ばすことばかりに心を使い、霊的な世界に全く目が開かれなかった者であると、スエーデンボルグは言います。

仏教の教えに基づいて、生前に罪を犯した者が死後に堕ちる凄惨な地獄の様相を描いた「地獄絵巻」を、ご覧になった方も多いと思います。

社会不安が強まった平安時代後期から鎌倉時代にかけて盛んに作られた「地獄絵巻」は、恐怖心に訴えて善行を行うよう促す仏教の教化ツールとして用いられ、時代を超えて、多くの人々の心に地獄のイメージを焼き付けてきました。

仏教では、閻魔大王によって生前の罪が裁かれ、「罰」としてその罪にふさわしい地獄に送られると説かれていますが、スエーデンボルグは、地獄に行く霊は、罰として地獄に送られるのではなく、自分の意識がその世界に惹きつけられて、自ら望んでその地獄へ行くことを選ぶというのです。

食欲や性欲など肉体の快楽に執着する人たちにとって、そこから解脱した天上の世界は、何の魅力もないつまらない世界に感じるでしょう。

自分が貯め込んだ財を他人のために与なければならないとしたら、守銭奴にとって、そこは天国ではなく地獄になるでしょう。

戦って勝利すること、人を支配することに生き甲斐を感じる人たちは、平穏な世界を嫌い修羅の道を選ぶでしょう。

そこが地獄だとうすうす感じながらも、それでも煩悩のつくり出す世界に惹き寄せられてしまう人間の業と哀しさが、精霊界には渦巻いています。

その実態を次々と見せられた時、「煩悩即菩提」というブッダの教えが、いかに深遠な衆生救済の教えであるかを、あらためて感じさせられます。

自分が霊であることを思い出し、この世の知識や人間の技を遥かに超えた高次元の世界があることを悟った人たちは、地獄へは向かわず天界へと向かいます。

その行き先は、「霊国」か「天国」のどちらかです。霊国と天国、そこにはどんな違いがあるのでしょう。

人間の本体が永遠の生命を生きる魂であり、森羅万象を動かす天の理(ことわり)によって生かされていることを、「知識」として理解した人は、霊国へと向かうと言われています。

この世では、認識と行為が一致していなくても、それが当たり前のことになっていますが、霊界では、思っていることや、何のためにそれを行っているのかという動機がそのまま波動となって伝わりますから、見せかけの「善行」は通用しません。

天国は、天の理を知識として理解するだけでなく、それをそのまま生きている人たちの世界と言われています。

創造主への「託身」と同胞への「無償の愛」が実践されている天国には、まだ地獄が存在しなかった古代の純朴な霊が多く、近代や現代の人は少ないとスエーデンボルグは言います。

そう言われてみると、科学技術を信仰し、物質的な豊かさと引き換えに霊的な世界を喪失しまった私たち現代人が、天国に迎え入れられるのは、聖書にあるように「駱駝が針の穴を通るほど難しい」ことなのかもしれません。

自分が霊であることに目覚め、霊の世界についての知識を学んでいたとしても、物質文明にどっぷりと浸ってしまった私は「霊国」に辿り着くのがやっとのような気がします。

霊界には、数千億以上の団体があり、霊たちはひとつの町や村を形づくって一緒に住んでいると、スエーデンボルグは記しています。

霊界では本来の性格や個性が一致するものだけが一緒に集まって生活するために、その多様さに応じて無数の団体ができるというのです。

やがて私は、自分と同調する波動に導かれて、永遠の生を送ることになる自分の団体に還ります。そこに帰還した時、この世に生まれた時に失ってしまった転生の記憶が次々と甦ります。そして私は、魂の兄弟たちと涙の再会を果たすことになるでしょう。

私が肉体を持ってこの世に生まれた時、魂の兄弟たちは、記憶を喪失した私を、見えない世界から献身的に守護してくれました。

今度は私があの世から、肉体を持ってこの世に生まれる魂の兄弟たちを守護することになるかもしれません。あるいは、この世で同じ願いを抱いて苦闘する人たちを応援することになるのかもしれません。

魂の故郷に帰って新しいミッションを続けながら、私は再びこの世に生まれ変われるチャンスを待つことになります。

霊界では、同じ願いや境地を持つもの同士でなければ、一緒に暮らすことはできません。どんなに愛し合った夫婦や家族であろうと、どんなに親しい親友であろうと、波動が違えば離れ離れになって、二度と一緒には暮らせなくなってしまうのです。

別々の世界に行った懐かしい人たちと再び出会うために、そして自分の知らない異質な世界と交流するために、再びこの世に生まれ変わりたい、私はそう願わずにいられないと思います。

しかし、残念ながらスエーデンボルグは、転生輪廻については何も語っていません。ここから先は、眠れる予言者としてニューエイジ思想に大きな影響を与えたエドガーケイシーに、ツアーのガイドをお願いしようと思います。

ケイシーは、相談者の悩みや疑問に応えるために、催眠状態に入ることによって相談者の魂に刻まれた「転生の記録」にアクセスしました。相談者の「魂の旅路」を記録したこのライフリーディングのファイル数は2000件を超えています。

そこに記された時空を超えて演じられる「魂と肉体の相克のドラマ」は、深い感動とともに「人は何故生まれ変わるのか」という転生の秘密を私に開示してくれました。

ファイルによれば、私たちの魂は、毎回違う肉体を纏って、縁を結んだ人たちと一緒に生まれ変わり、立場を変えて様々な役柄を演じながら、その魂の願いを果たそうとすると、ケイシーは言います。

志半ばに終わった願いを成就するため、自分の行為を償うため、あるいは因縁の相手との関係を結び直すため、私たちは、その願いを叶えるために最もふさわしい境遇に生まれ変わると言うのです。

そして、白紙の状態から新しい人生をやり直すための天の配慮で、魂の記憶はリセットされ、私たちは、忘却から人生を始めなければなりません。

目の前にいる人が、過去世でどんなに愛した相手でも、どんなに憎んだ相手でも、私たちにはそのことを思い出すことができません。そして、記憶を失った世界で、相手に対して行った行為が、ブーメランのように自分に返ってくるのです。

しかし、それでも、私たちはこの世に生まれたいと切望するのです。

私たちが、次に生まれ変わるのはどんな世界なのでしょう。いつの時代に、誰と一緒に生まれ、何処でどんな役柄を演じるのでしょう。神さまが描くシナリオは、きっと、私の想像をはるかに超えたものになるに違いありません。

こうして、役回りを変えて縁友たちと演じる「魂の進化のドラマ」が、この地球という星で再び始まるのです。

「私が死んだら」という死後のツアーのシミュレーションは、概ねこんなところでしょうか。

旅はプランを考えている時が一番楽しいと言う人がいます。しかし、旅の途上で予期せぬ事態と出会ったり、自分の暮らしている環境が、いかに恵まれた有難いものであったかを再発見できるのが、旅の醍醐味だと私は思っています。

広大無辺な多次元宇宙の中で、肉体を持ってこの地球という星に生まれ、縁友たちと巡り会えたことは奇跡に近いことなのではないか、死後の世界をシミュレーションしていると、そんな想いが湧き上がってきます。

この宝物のような出会いを大切にして、残り少なくなった今世を、悔いのないように生きてゆきたいと思います。

 

LINKS

渓流を流れてゆく落ち葉と今年最後の満月を眺めながら、
この一年を振り返っていただければ幸いです。

NATURE通信December 2025 「枯葉と流水」
https://nature-japan.com/nature-tsushin/

 

「縁友往来」に新しい投稿があります。

日本語の美と知性━数学が証明した真実
 
By Akira
https://grow-an.com/mate/mate-044/

 

「チベット高原」 By 流水
https://grow-an.com/mate/mate-045/

 

参照

スエーデンボルグは膨大な著作を残しました。その一部が日本語訳で出版されていますが、
どれがいいのか選択に迷います。
初めての方には、この世とあの世の仕組みをトータルに解説した
「霊界」(全3巻 中央アート出版)をお薦めします。

http://www.chuoart.co.jp/book/b9030.html

2025/12/25

Tags:内宇宙の旅

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