愚老庵ノートSo Ishikawa
五月のNATURE収録日誌

病院やホスピスなどの高精細な大画面ディスプレイを使って、月替わりでNATUREを放映していただくために、これまで撮り溜めてきたアーカイブをもう一度見直し、施設向けの新たなコンテンツづくりを始めています。
NATURE通信の集大成とも言えるこの「NATURE12ヶ月版」の構成をしていて、ふと気づいたことがあります。私はなんとこれまで一度も、五月の海を収録したことがなかったのです。
五月の野山には、清冽な雪解け水が流れ、若葉が萌え出し、色とりどりの草花が咲き乱れ、爽やかな風が吹き抜けてゆきます。
大地に溢れるこの「生命のエネルギー」の魅力に惹き寄せられて、私はどうやらこの季節に、海に向かうことを忘れてしまっていたようなのです。
今月は海に行ってみよう、そう決意しました。向かったのは、九十九里浜の白里海岸、深夜なら車で1時間半も走れば、見渡す限りの太平洋に出会える私のお気に入りの撮影スポットです。
日の出は午前4時半過ぎ、余裕を持って2時に自宅を出発し、3時半には撮影ポイントに到着しました。
連休が終わったせいか、釣り人やサーファーの姿はなく、画づくりを邪魔されることはありませんでしたが、沖の方で数隻の漁船のライトが光っているのが気になりました。
日の出の太陽と波の重なりを一つの画面に入れるために。超ローアングルにカメラをセットし、雲の明るさと染まり具合で太陽が顔を出す位置に当たりをつけます。
今回の日の出は、雲と雲のスリット状の隙間から太陽が顔を覗かせるという珍しいシーンになりましたが、案じたとうり、太陽が昇ってゆく一番いいところで、一隻の漁船が画面を横切って行きました。
少し前なら、これでこのシーンはボツになってしまうところですが、近頃は、生成AIと画像処理技術の進化によって、動画でも船を消すことが可能になったのです。
そうは言っても繊細な修正はかなり大変なのですが、動画の修正を担当してくれている上野君のスキルと根性を信じて、そのままカメラを回し続けることにしました。
五月に入ると、太陽の光は日に日に強さを増してゆきます。渚に打ち寄せる波は、その光を反射して眩い波動とリズムをつくり出します。
今回出かけてみて、五月の海には他の季節には無い清々しくて力強い煌めきがあることに気づかせてもらいました。
日の出を見たことがないという子供たちが、二割を超えているという新聞の調査報告を思い出しましたが、この大自然の生命のエネルギー輝きを、日の出を見たことがない子供達だけでなく、日の出を忘れてしまった大人達にも見せてあげたい、五月の海を見ていると、そんな想いが湧き上がってきます。
日の出の収録を終えて時計を見ると、時刻はまだ5時半を回ったところでした。車に戻って途中コンビニで調達したサンドイッチを頬張り、一休みしてから、今度は新緑の輝きを求めて、海岸から車で15分ほど内陸に入ったところにある十枝の森に向かいました。
この森は、地元の人たちによって代々守られてきた小さな自然の森で、樹齢450年の楠の大木があります。天に向かって四方に伸びる大きな枝を仰ぎ見ると、そこには視界いっぱいに、色鮮やかな若葉が萌え出していました。
どうにかして、循環する生命がつくり出すこの圧倒的な「存在感」を伝えたいと思いました。しかし残念ながら、無風状態でまったく「動き」が無いのです。これでは動画にはなりません。泣く泣く収録を諦めるしかありませんでした。
もう一度、白里海岸に戻って、太陽が昇った後の渚を収録することにしました。するとわずか二時間の違いで、とても同じ渚とは思えない「渚を横に走る不思議な波」のシーンと出会うことができました。

晴れた五月の海岸では、気温がみるみるうちに上昇し、真夏並みの暑さになります。早朝の撮影で着ていたウインドブレーカーを脱いで、念入りに日焼け止めを塗ってから、次の撮影ポイントがある勝浦に向かいました。
一時間ほど、車を走らせ、駐車場に車を止めた時、衝撃が走りました。何と財布が無いのです。着ていたものや車の中をいくら探しても見つかりません。
財布には数万円の現金の他にクレジットカードとキャッシュカード、それに運転免許証が入っていました。
撮影中か着替えた時に落としたに違いない、そう考えて急遽、白里海岸へ戻ることにしました。撮影していた場所の周辺や、立ち寄った場所を、目を皿のようにして探しましたが、財布は見つかりませんでした。
財布を無くしたのは、初めての経験です。どう対処したら良いのか、ひとまず深呼吸して心を落ち着かせることにました。マインドフルネスモードに入ると、なぜか財布は出てこないだろうという予感がしてきました。
幸いなことにスマホは手元に残っていたので、財布を無くした時の対処法を検索しました。そして、まず近くの交番を探して、警察に遺失届を提出しました。
次は、カード類をストップしなければなりません。私はネットを使った手続きが苦手で、考えただけで気が滅入ってしまったのですが、妻に電話して事情を伝えると、テキパキと処理を進めてくれました。
こういう時の妻は本当に頼りになります。これまでも何度窮地を救われたことか、その有り難さに思わず心の中で手を合わせてしまいました。
今日はこれで収録を中止し、会社に帰ると伝えたところ、免許書不携帯になるのでそれはやめてくださいと、スタッフから強く止められてしまいました。
代わりの運転要員を乗せて、これから車で迎えに行くので、そこで待っていてくださいと言うのです。スタッフの優しさに感謝しつつ、仕事中に突然迷惑をかけてしまった申し訳なさに内心忸怩たる思いでした。
「自分は、人に迷惑をかけなければ生きていけない存在であり、周りの人たちに支えられ、助けられて生きている」そのことを、あらためて教えられているような気がしました。
スタッフが到着するまでには、二時間以上かかりそうだったので、その間に、念のためもう一度、十枝の森に行ってみることにしました。
地面に目を凝らし、歩き回ったところを隈なく探しましたが、やはり財布は落ちていませんでした。ため息をついて空を仰ぐと、なんと風が吹き始めたのです。

梢を渡る五月の爽やかな風が、視界いっぱいに広がる色鮮やかな新緑の葉を揺らし、心地よい葉擦れ音と木漏れ日が「生命のリズム」を奏で始めました。
早朝に訪れた時は無風状態で、なす術もなかったのですが、こうなると話は違ってきます。財布を落としたことなど忘れて、思わず収録モードに突入してしまいました。
NATUREの収録で、「無我夢中状態」になっている時には、素晴らしいシーンが録れていることが多いのですが、このモードに入ってしまうと、ついつい周りが見えなくなり、時間の経つのを忘れてしまいます。
間もなく到着するというスタッフからの電話で我にかえり、あわてて待ち合わせ場所まで車を走らせると、二人はもう到着していました。十枝の森で収録していたと言うと、こんな時にまだ収録しますか!と呆れられました。
運転を代わってもらって帰る途中、今日一日の出来事を振り返ってみました。もし財布を落としていなければ、十枝の森を再訪することはなく、私は予定通り房総半島の南端まで行っていたでしょう。
財布を落としたおかげで、私は五月の爽やかな風がつくり出す新緑の木漏れ日のシーンを収録することができたのです。
それだけではありません。この出来事があったおかげで、私は周りの人たちの優しさに触れ、自分が支えられ、生かされていることに、あらためて気付かされました。
私たちは、自分にとって不都合な出来事を忌み嫌います。しかし「人間万事塞翁が馬」「禍福は糾える縄の如し」という諺にもあるように、その場の利害得失に一喜一憂することなく、もっと大きなスパンで人生を捉えようとした時、そこには別の眺めが開けてくるのではないでしょうか。
失敗や挫折は宝物であり、眠ってしまった魂を揺り起し、本当に大切なものを思い出すための「魂の呼びかけ」だと覚者たちは言います。
もしそうだとすると、今回の事態は私に何を呼びかけているのでしょう。これは、NATUREの収録に夢中になって周りが見えなくなってしまう私に対する警告なのでしょうか。
確かに私はここ数年の間、風景に見とれて転倒し足を怪我して友人に病院に連れて行ってもらったり、撮影機材を水没させて使用不能にしたり、三脚からカメラを落として装備を破損してしまうという失態を続けてきました。
これらの事態は「年齢的に、収録を続けるのはもうやめたほうがいい」という警告のようにも思えます。この世の常識で考えれば、私はそれに従うべきなのかもしれません。
しかし、これらの失敗による苦痛が、残された人生で私が何を選択すべきかという「魂の願い」を覚醒させてくれたことも確かなのです。
私の魂は、リスクを回避して安穏な老後を送ることを望んではいません。「ご迷惑をかけるかもしれませんが、それでもやらせてください」私の魂は強くそう願っています。
魂の次元から見た時「物を失うことは、新しい何かが入ってくるスペースをつくるためのポジティブな変化を表象している」とも言われています。
財布を無くすという出来事は、お金や物質に対する執着を手放すタイミングが巡ってきたというメッセージであり、新しい運気が流れ込んでくるサインと受け取ることもできるのです。
それは「自我」が自分の都合の良いように解釈しているだけではないのか、そう言われそうですが、私が今、新たな人生の選択を迫られているのは確かです。
永遠の生命を生きる私の魂は、私に何を呼びかけているのか、その解答を真摯に求めつつ、残されたこの世の時間を悔いなく生きてゆきたいと思います。
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2026/5/26



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