愚老庵ノートSo Ishikawa
魂の故郷に還るための動画

前回の愚老庵ノートでは「真実を知るための動画」について考察しましたが、今回は「現実を忘れさせてくれる動画」について考えるところから始めさせていただきたいと思います
「現実を忘れさせてくれる動画」と言われてまず思い浮かぶのは、映画やテレビドラマなどのエンターテインメント動画、そしてCMやプロモーションビデオなどの宣伝広告動画ではないでしょうか。
そこにあるのは、夢や憧れ、秘められた願いなどをエネルギーにして、人間の豊かな想像力が創り出す虚構の世界です。誤解を恐れずに言えば、そのほとんどがフェイク動画と言えるのかもしれません。
私たちは、それが「つくりものの世界」であることを知りながらも、この魅惑的なファンタジーの世界に、強く心を惹かれてしまいます。
ニュースやドキュメンタリーでは、現実に起きていることをありのままの映像で伝えようとします。一方、映画やCMの世界では、シナリオと絵コンテがあり、その作品の世界観をつくり上げるために、出演者だけでなく大勢の人たちの力が結集されます。
収録の現場では、監督やカメラマン、音声、照明、メイク、スタイリスト、大道具小道具など、大勢のスタッフが力を合わせて、ひとつひとつのシーンを創り上げてゆきます。
収録されたシーンをひとつの作品に仕上げるためには、実写では難しいシーンをCGで作成するクリエイター、動画を時間軸に沿ってデザインする動画編集のスペシャリスト、音楽や効果音を付加してゆく音響クリエイターなど、さらに多くのスペシャリストの力が必要になります。
才能豊かな出演者とスタッフを集めるには、それ相応のお金がかかります。その資金を稼ぎ出し、より魅力的な作品をつくり続けるために、映画やテレビドラマは、インターネットの動画配信に新たな活路を求めました。
グローバルなプラットフォームによって世界中に配信される映画やシリーズドラマ、アニメは今、コンテンツビジネスの主役として、莫大な利益を稼ぎ出し、エンターテインメントの世界を牽引しています。
かつて映画が総合芸術と言われた時代がありました。しかし、グローバルなコンテンツビジネスという枠組みの中で量産される最近の映画に「芸術の深み」を感じることは少なくなりました。
今や映画は楽しむための娯楽となり、「現実を忘れさせてくれるリアルなファンタジー」というポジションを、私たちの日常生活の中にしっかりと確立しているように感じられます。
他方で、SNSの世界では「ペット動画」や「おもしろ動画」など、素人が投稿したショート動画が飛び交い、国や言語を超えて世界中の視聴者を惹きつけています。
YouTube が作り出した、再生回数に応じてお金が支払われるという仕組みによって、ユーチューバーは若者の憧れの職業となり「数こそがお金と力」というトレンドがこの世界を席巻しています。
そして今、投稿動画の世界でも、楽しむための「エンタメ動画」が、映画やドラマに劣らない再生回数を稼いでいます。
個人がスマホで投稿した「切り取り動画」が、多くのスペシャリストが結集して創り上げた「大規模なエンターテインメント動画」と競い合って、視聴者の時間を奪い合うことになろうとは、わずか20年前には想像もできなかったことです。
つくり手もつくり方も違うこの二種類の動画は、全く異質なものだと言う人もいます。しかし、動画というメディアの強みをフル活用して、観客を惹きつけ楽しませようとするという点では、両者は共通しているのではないでしょうか。
映画が総合芸術と言われた所以は、文芸、美術、音楽、演劇など、そのひとつひとつが単独の芸術としても成立し得る世界を「動画という時空間」で統合し、凝縮することができたからでした。
動画の持つこの力は「夢と快楽の世界」を創り上げる時にも絶大な威力を発揮します。台詞や語り、文字、演技やパフォーマンス、ファッションや美術、歌舞音曲、それらを総動員すれば、動画は「現実を忘れさせてくれる」最強のメディアになりえるのです。
あらゆる表現手段を結集して人間の想像力が創り上げた「リアルなファンタジー」、そこには理不尽な現実を忘れさせてくれる「もうひとつの世界」があります。
私たちは、この別世界の時空間で、あたかも登場人物になったかのように、ワクワクドキドキするような濃密な時間を過ごすことができます。
この世界で過ごす時間は、私たちを日々の不安やストレスから解放し、明日に向かうエネルギーをチャージしてくれます。しかし、それは束の間のことで、夢から醒めれば、変わらぬ現実が待っています。
この楽しい時間が少しでも長く続くように、動画を配信するプラットフォーマーは、見放題のサブスクリプションによって、「エンタメ動画を毎日のように見続ける」という習慣を、日々の暮らしの中につくり出そうとしました。
「現実を忘れさせてくれる動画」が、あたかも常習性を持つ麻薬のように私たちの日常生活を支配する世界、これはSF小説が描く未来の出来事ではなく、今現実に起きていることなのではないでしょうか。
麻薬の常習者がより強い薬を求めるように、「現実を忘れさせてくれる動画」の常習者も、より強い刺激を求めるようになります。
視聴者を釘付けにするために、刺激的な映像や声高な音声、大きな文字を、隙間なくぎっしりと詰め込んだCMやプロモーション動画を、最近よく目にするようになりました。
なりふり構わずダイレクトに欲望のスイッチを押させようとする動画には「余白」がありません。それは、視聴者が立ち止まって考える時空間を与えないようにするためです。
最近、一部のテレビニュースのバックにも音楽が流されるようになったのをご存知でしょうか。このことは、私たちが情報を判断する際に、さほど影響を与えないように思えます。
しかし、私たちは思考の回路だけで生きているわけではありません。音楽は私たちが意識していないところで、気分や感情、生活のリズムなどに大きな影響を与えているのです。
これは、視聴者を少しでも惹きつけておきたいという制作者の想いと、空いている動画の隙間を不安と感じる視聴者の要望が、たまたま一致したために起こったことなのかもしれません。
所詮はニュースショーと言ってしまえばそれまでですが、立ち止まって考えさせないようにする意図的なマインドコントロールが、事実を伝えようとする報道の世界にまで及ばないことを祈るばかりです。
伝統的な日本の文化では、「余白」や「間」が大切にされてきました。それはこの何もない時間や空間が、心の深いところで、物質の次元を超えた見えない世界と対話するための「場」をつくりだしていたからです。
コスパやタイパを追求する社会からは「余白」や「あそび」が消え、人と人との「縁」を繋ぐ見えない「糊代」が失われてゆきます。
利益の追求と目先の成果ばかりを求めるギスギスした世界から身を守るために、私たちは、自分の周囲に強固なセキュリティの砦を築かざるを得なくなりました。
しかし私たちは、この「安全な牢獄」の中では、なかなか「生きている実感」を感じることができません。未来に希望が見出せない閉塞感から、多くの人たちは、目の前に差し出された「ファンタジーの世界」に傾倒してゆくことになります。
ファンタジーと現実、この二つの世界の境目が、最近どんどん曖昧になっているように感じます。イベント会場の中だけで行われていたコスプレがいつの間にか街の中まで溢れ出し、人気アニメの舞台となった場所には、聖地巡礼ツアーが組まれるようになりました。
今この世では、創られたファンタジーの世界を、現実の世界よりも大切にし、生き甲斐にしている人たちが急増しているように感じます。
その人たちは、現実を忘れさせてくれるファンタジーの世界を、現実のものとして生きようとしているのかも知れません。しかしそれは、いつかは醒める夢であり、この世に生きる根本的な苦しみから私たちを救ってはくれないのではないでしょうか。
インド哲学は、現実の世界はマーヤー(幻影)であり真実の世界を覆い隠していると説いています。映写機がフィルムを透過した光で映画を映し出すように、自分の心というフィルターを通して、創造主の光がこの世に幻影を映し出すというのです。
仏教も、この世は煩悩に支配された「無明」の世界であり、衆生は肉体五感がつくり出す儚い夢を求めて、迷いと苦悩に明け暮れると説いています。
私たちは自分の生きている世界が、よもや自分の心が映し出した幻影であるとは思っていません。この世の現実が自分が作り出した幻影だとしたら、幻影ではない真実の世界とは、一体どんな世界なのでしょうか。
Akiraさんは、以前「ブッダの心を尋ねて」という寄稿で、次のようなブッダの言葉を紹介してくれました。
今からおよそ2500年前、ブッダが悟りを開いたとき、最初に言ったとされる言葉がある。━不思議だ、不思議だ、一切の生きとし生けるものは、本来、仏そのものなのに、煩悩でおおわれているがゆえに、その真実に気づいてないだけなのだ。(涅槃経)
この世に生まれてくる時、私たちは、一体どんな世界を見ていたのでしょう。私たちは、自分の本性が「仏」であることを知っていたのではないでしょうか。
私たちの本体は「魂」という霊的なエネルギーであり、過去に煩悩がつくり出した自己中心のネガティブな想念や先入観のフィルターを浄化して、光と安らぎに満ちた「仏」の世界に回帰することを願っている、そしてそのために何度もこの世に生まれ変わって来る、魂の世界を探求した覚者たちはそう説いています。
煩悩は、真実の世界を覆い隠し、様々な苦しみをつくり出します。しかし、その苦しみがあるからこそ、私たちは仏に救いを求め、仏の世界に回帰することができると、仏陀は説きました。
快楽を求める飽くなき煩悩が地球を覆い尽くし、物質文明が崩壊の危機に瀕してしている時代、「煩悩即菩提」というこの仏陀の教えが、あらゆる衆生に「救済の道」を開示してくれることを只々祈るのみです。
「現実を忘れさせてくれる動画」によってつくり出された夢や安らぎの世界は、いつか必ず壊れて消えてゆく時が来ます。そして、その時必要とされる動画は「魂の故郷に還るための動画」なのではないでしょうか。
NATURE JAPANは、自分の心の最深部に存在する「仏」を求めて内宇宙を旅するための動画を目指しています。旅の途上で、動画の余白は心を映すスクリーンとなり、忘却の淵に沈んでいた煩悩の記憶を映し出します。
大自然の波動に呼吸を合わせて、自分の心の中の「仏」に祈り、「仏」と対話しながら、過去に自らがつくり出した煩悩を光へと変えてゆく、NATUREがそのための動画となってくれることをひたすら願って止みません。
LINKS
今月のNATURE通信は、再生する「生命のエネルギー」にフォーカスしました。
NATURE通信 May 2025 「五月の光と風」
https://nature-japan.com/nature-tsushin/
「縁友往来」に新しい投稿があります。
五感で感じる風、雨、太陽から生まれた家づくり
by Brian Amstatzs
https://grow-an.com/mate/mate-028/
大乗仏教の核心「初めに大悲ありき」の解明
by 流水
https://grow-an.com/mate/mate-029/
遊女の問いと数学の難問に答えた━法然と岡潔の「光源」
By Akira
https://grow-an.com/mate/mate-030/
参照
ブッダの心を尋ねて━「この世は美しい」「皆が仏性を抱く」 by Akira
https://grow-an.com/mate/mate-008/
2025/5/26
Comment
Quantum mechanics shows particles exist in all states until observed.
The multiverse suggests infinite versions of “you” already exist.
量子力学によれば、素粒子は、観測されるまで、あらゆる状態に存在する。多元宇宙は、「あなた」という無限のバージョンが、すでに存在していることを示唆している。
将来、人類は、ドラッグか、瞑想か、いずれかの道を行く、━と言った人がいました。愚老庵さんの表現を借りれば、前者は、「『現実を忘れさせてくれる動画』によってつくり出された夢や安らぎの世界」に依存し、酔い、浸る自我の道でしょう。だが、その快楽と幻想は、「必ず壊れて消えてゆく時」を迎えざるを得ない。その時が、目覚める、覚醒する、自覚するチャンスとなるのでしょう。
瞑想とは、自己の意識を徹底して自覚することです。そして、まさに愚老庵さんの言われる通り、「その時必要とされる動画は『魂の故郷に還るための動画』なのではないでしょうか」。自己の根源に徹することが、魂の故郷に還ることでもあるのですから━。そしてそれは、ブッダが説く、内なる「仏性(仏の慈悲と智慧)」との邂逅に他なりません。
自分の意識の奥底に、深く降りてゆくと、やがて自然がもつリズムと光、慈愛と叡智に満ちた世界が開けてくることでしょう。自分の奥底に、自然・宇宙の波動と生命が息づき広がっているのです。「NATURE JAPANは、自分の心の最深部に存在する『仏』を求めて内宇宙を旅するための動画を目指しています」━自己の内なる「仏」との出会いに、心が自然のリズムに共鳴することで導かれるのです。
「大自然の波動に呼吸を合わせて、自分の心の中の「仏」に祈り、「仏」と対話しながら、過去に自らがつくり出した煩悩を光へと変えてゆく、NATUREがそのための動画となってくれることをひたすら願って止みません」。━こころを開いて、自分(自我)を超えた何か大きな力に包まれ抱かれている感覚が訪れるとき、はじめて自分の心の中の「仏」が産声を上げ、成長することができるのでしょう。ここに、NATUREの目的と願いが、明らかにされたことを心より嬉しく思います。
愚老庵さんに、感謝を込めて、応援メッセージをお贈りします。
“The unconsciousness is not just evil by nature, it is also the source of the highest good: not only dark but also light, not only bestial, semihuman, and demonic but superhuman, spiritual, and, in the classical sense of the word, ‘divine.’” –Jung
無意識は、本来、単に邪悪だけではなく、最高に善なるものの源でもある。闇だけでなく、光でもあるのだ。野蛮な半人間、悪魔的であるばかりでなく、超人間、霊的で、古典的な意味での「聖なるもの」でもあるのだ。
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