愚老庵ノートSo Ishikawa
心に自然のリズムを取り戻す

夏のこの時期、NATUREの収録では、台風が通過する前後の海辺を訪れることにしています。それは太陽の光と巨大な雲の渦、強風と波濤が造り出すダイナミックな光と影のドラマと出会えるからです。
今回は、8月11日、台風15号が上陸する直前の夜明けを狙って、九十九里浜に向かいました。午前4時、現地に到着してみると、これまでと何かが違うのです。
台風が迷走して、まだ遠くの洋上に居るせいなのか、波が静かで、空一面がどんよりとした雲で覆われています。これまでのように、朝日に染まる巨大な積乱雲と強風に舞う波濤を期待していたのですが、その期待は見事に裏切られてしまいました。
あきらめて出直そうかとも思いましたが、今回は何故か、与えられた条件の下で最大限できることをしてみようという気になりました。
17mmの超ワイドレンズで、波打ち際に写り込む空を強調し、遠くに見えていた泡波が足元に迫ってくる構図をつくってみたのですが、光のドラマがないので、なかなかNATUREが目指しているシーンにはなりません。
潮騒に呼吸を合わせてマインドフルネスモードで祈ること1時間、あきらめて帰ろうとした時、どんよりとした空を映す濁った灰色の波間に、キラキラとした光が差し始めたのです。これまで台風の撮影では経験したことがない何とも不思議な光景でした。
私はこれまでNATUREを収録する時に、どんな時節に、どこに行けば、どんなシーンが収録できるのか、過去の経験によって蓄積されたデータを頼りにしてきました。
私の中では、台風は南西から北東に移動するものという固定観念がありました。しかし、今回の台風15号は逆走したのです。日本列島を東から西へと逆走する台風を前にして、私のこれまでの経験知は全く役に立ちませんでした。
予測不能になってしまった時代に、NATUREをどのようにして収録してゆけばいいのか、今回のロケでは、そのことを問いかけられているような気がしました。
見えない世界と交流できた古代人なら、星の動きや神託によって、収録すべき時と場を決めることが出来たかもしれません。しかし、現代の物質文明にどっぷりと浸かってしまった私には、それは無理です。
天候の変化や撮影地の状況を刻々と伝えてくれる現代の情報テクノロジーは、NATUREの収録にはなくてはならないものになっています。
そう遠くない未来に「この時間に、この場所に行けば、こんなシーンが撮れます」という提案を、AIがしてくれるようになるかもしれません。
しかし、その提案は過去のデーターと経験知をもとにつくられたものであり、「何のためにそのシーンを撮ろうとしているか」という撮る人の「現在の想念」はそこには反映されていません。
「私たちの想念が現実を作り出す」と覚者たちは言います。私はこれまでのNATURE行脚で、自分の想念が自然風景との出会いをつくり出すことを学んできました。
自分の想像力を遥かに超えた神秘的なシーンと出会うためには、「自分ではないもの」の力を借りなければなりません。
大自然の神秘的な変化とリズムを、視聴してくださる人の深層意識に届けるために、私はまず、自分自身が心の深みへと降りてゆき、そこから見えない世界に助力を求めることにしています。
大自然の波動に己を合わせ、人知を超えた「大いなる世界」に心を委ねること、それが出来てはじめて、最新鋭の情報テクノロジーを使いこなすことができるのではないか、私はそう考えています。
想定外の事態が起きる予測不能の時代には、実際の収録現場では何が起きるかわかりません。見えない世界に託身していれば、たとえ期待していたようなシーンが撮れなくても、心が折れることはありません。
すみやかに気持ちを切り替えて、NATUREを収録する本来の目的に立ち還り、見えない世界から送られてくるインスピレーションや直感を頼りに、臨機応変に動くことが出来るのです。
見えない世界と響働し、やれるだけのことはやって後は天に任せる、これが予測不能になった時代にNATUREを収録するためのスタイルになる、私はそう確信しています。

1980年代の後半から、南房総から九十九里、鹿島灘から北茨城まで、太平洋沿岸の定番撮影スポットを、毎年のように巡っていますが、この40年の間に、海辺を取り巻く環境は大きく変わりました。
変わったのは台風の進路だけではありません。私が感じている大きな変化、それは砂浜が減少してしまったことです。
地球温暖化によって海面が30cm上昇すると、日本の砂浜の半分が失われてしまうというシミュレーション結果が報告されていますが、渚を歩いていると、この40年の間に、波打ち際から護岸までの砂浜の距離が短くなったことを実感します。
海岸の侵食を防ぐために設置されたコンクリートの護岸壁と、高潮を防ぐために波打ち際に並べられた消波ブロックによって、白砂青松と謳われた日本の美しい海岸線は、もはや過去のものとなってしまいました。
レンズを通して画づくりをしていると、「美しい砂浜」が少なくなってしまったことをひしひしと感じます。
もうひとつの変化は、浜辺の気温が上昇していることです。気象庁のデータによれば、地上では気温35℃以上の猛暑日の数は、この100年間で3,3倍に増加しているそうですが、海上では、海水温も同時に上昇し続けています。
海面水温が上がると、大気中の水蒸気の量が増えるため湿度が上がります。近頃は、撮影していて体がベトつくほどの異様な蒸し暑さを感じることが多くなりました。
かつては夏になると、当たり前のように家族や友人と連れ立って海水浴に出かけるという時代がありました。レジャー白書によれば、1985年には、年一回以上海水浴をする人の数は、3790万人でした。それが40年後の2024年には、何と9割近くも減少し440万人になってしまったのです。
価値観やライフスタイルの変化も大きいと思いますが、日本の夏の海辺は、もはや暑さをしのぐ行楽の地ではなくなってしまったようです。
寂れてゆく浜辺には、ペットボトルやプラスチック製品の残骸など、打ち上げられたゴミが目立つようになりました。
この半世紀の間に海離れが進行し、大多数の人たちは、渚で波と戯れることも、潮騒の響きに耳を傾けることもなくなりました。
寄せては返す潮騒の響きは、胎児が母親の胎内で聞く音に似ていると言われます。そして、海は「生命のゆりかご」と呼ばれてきました。
地球上の生命は、海から生まれてきました。海には世界中の河川が流れ込み、様々なものを運んできます。海はそのすべてを受け入れて世界をひとつに繋ぎ、人間の尺度をはるかに超えた悠久の時間の中で、地球を浄化し再生し続けています。
今、この生命の循環が破綻しようとしています。自分さえ良ければという人間の飽くなき欲望が、すべてがひとつに繋がった地球生命体が自らを浄化できないところまで、地球の環境を破壊してしまったのかもしれません。
この世では今、これまでの常識では考えられないような異常気象や天変地異が、次々と起きています。このような事態は、「自然の摂理」から離れてしまった私たちの想念がつくり出しているとは考えられないでしょうか。
渚に立って潮騒の音に呼吸を合わせていると、心理学者ユングが紹介していた「雨乞い師の話」が心に浮かんできました。それは次のような話だったと思います。
ある中国の村が深刻な干ばつに見舞われ、困り果てた村人は雨乞い師を呼びました。村に到着した雨乞い師は、小さな小屋を貸して欲しいと頼み、そこに一人で閉じこもりました。そして3日が経ちました。すると何と季節外れの雪が降ってきたのです。
驚いた村人が、一体どんな魔法を使ったのかと訊ねると、「自分は何もしていません。村に来た時、村全体が自然の秩序(タオ)から外れて不調和な状態にあり、自分もその影響を受けていることに気づいたので、自分がタオに還れるようひたすら努めただけです」雨乞い師はそう答えたそうです。
私たちは、現実に起きている異常気象や天変地異に対しては、何もできないかもしれません。しかし、心の中に自然の秩序(タオ)を取り戻すことはできるのではないでしょうか。
NATUREが、心の中に「自然のリズム」を取り戻すためのお役に立てることを、ひたすら願っています。

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